人生というのは思い通りにならないものだが

 がというのは、思い通りにならないというとき、その「思い」の主体とは誰なんだろう、ああ、オレか、なのだが、そのオレというのは、実際には、記憶であったり、ある時期の悔恨であったりする。
 以前からうだうだ書いているが、私の心はどうも4歳のとき、14歳のとき、25歳のとき、36歳のときという各層で、ふつっと停まっている部分がある。もちろん、そうではない部分もあるのだが、なんとなくブログでは書かない。実生活で社会的に見える部分はそうではない部分なのでごく普通な人、というか、そういう乖離がなければブログなど書かないのかもしれない。
 そうした記憶の断層が、その後だらだらと老いていく自分に向けて、人生とは思い通りにはならないなと思っている。が、実際には人生というのは今しかない。そして今というのは、過去の思いとは違うのだから、思い通りにならないという理解はただの錯誤でしかない。が、まあ、そう言い難いところに記憶にしがみついた悲しい自我みたいものがある。
 人生の各地点で過去を振り返れば悔恨はある。そして未来があれば悔恨の挽回なりを思う。が、それはそれで刻々と裏切られていく。いろいろなところで、自分はもう若くはないのだと思う。若くいたいということではなく、ああ、自分の身体の未来というものはないのだと思う。うまくいえないが、青春期のような汗臭い煩悶の夜というのはもう二度と来ない。
 ただ。
 なんというか、人は存外に夢のなかで生きているかな。夢のなかで人はありえない過去の若い肉体を得ている。そのあたりに人の心のどうにもわからない部分はある。
 思い通りにならない今、いや今とはそうではない、いろいろ思いながら、実際の人は、それぞれにのっぴきならない今の状況に埋め込まれていて、そして、生きるということは、そののっぴきならぬ状況を受け入れることだ。かつての自分ならこんな場にはいなかったな、かつての自分ならこういうことは言わなかったな、いろいろ受動的に、させられる。悔しい感じがしないでもないが、そういう自我の部分を保持すればするほど、実際には生きがたくなる。というか、そこで、奇妙に、「人生」というか、人の生きる「道」みたいなものが現れてくる。
 これは、たぶん、人の進化な制約なのかもしれないが、生きて見て、自分の思い通りにならないがそれが人生の道というものかなというものに遭遇するとき、やはり他律的なものはある。そしてその地点で他律と意志というのは奇妙な相貌の異郷の神々の出会いのように驚き合う。
 流されていくのが人生ともいえないし、自己の夢を実現しようとするのが人生ともいえない。そして誰かが「私」の人生を評価するために生きているわけでもなく、己は己のなかでひそかに価値や矛盾を磨き上げていく。
 若い頃、小林秀雄の流儀の秘密はなんだろうと思った。山本七平もそう思ったようだ。私は、小林の人生経験や、彼に影響を与えた思想家・文学者はなんだろうとも思った。それを知ることでわかることはあるにはあるが、つまるところわかるものではない。そしてうまく言えないのだが、こうした人々に同化しようとすることをやめた。似ている部分があるが、同化はできない。そしてそれに付随して、語られる正義なり真実というのは、人の心に迂遠なものではないかと思うようになった。宗教にしてもイデオロギーにしても、人の、その個人の人生の内在のなかで問われない限り、それは他者を巻き込む本質的な悪の運動となりうるものだなと思う。知識は人を表層的に賢く見せるが、人の内在を賢くはしない。というか、誰かのためや世界のために人は生きているわけではない。そこで蹉跌したり奇っ怪な成功をして悪を撒き散らすのは、世界とは、他者とはそもそもそういう存在なのだという以上のことはない。
 カンフーパンダのエンディングで、パンダと師匠が肉まんを食う短いシーンの背後で桃が芽吹いていた。あれが、タオ、というもので、人はさらについタオを使えるように思う。ただ、タオはそのままにしてある。というか、タオが世界の側にあるように見えるのは、しかし、おそらく、間違いなのだろう。人は生きていけば、人生に出会う。