ざっと見るに

 昨日これを書いたものの、アップしなかった。


■ですね

 散人先生⇒Letter from Yochomachi (Blogger): 人生、勝つときもあれば負けるときもある。負けたときは負けを潔く認めよう!

総資産ベースでは円資産の方が多いのが普通。ガタガタする方がグリーディーだ。

 結果的にはヘッジなわけですけど。

経済発展のためには何も役に立たないタンス預金やゆうちょ銀行にお金を預けていた保守的な既得権集団だけが損失をこうむらなかった。彼らは「だから言ったじゃないの」と得意げにグローバル市場経済システムを非難して満足げだが、ニッポンの「無能な悪い奴ほどよく儲かる」システムこそが問題じゃないか。

 タンス預金の人たちはそう思ってないんですよね。
 私が株をやっていたころはまだ銀行持ち株というかそういう時代。この結果を見ると、外人が入る市場というのはこういうものかなと思う。つまり、読めないな。
 株というのはまがりなりにも投資なんで、その企業の出資者になる。なのでその企業が見えないとダメというのはあって、2000年頃から見えなくなったなというのはあった。
 株はこのあたりが底かなと思うけど、だからといってここで買う蛮勇もない、というか、そのあたりはプロパーな世界。



 アップしなかった理由は、株の底が見えないなというか、何が起きているんだろ感はある。もちろん、理屈はつくし、自分も捕らぬ狸の皮算用的には損こいたので、いま大損こいている人の気持ちがわからないではない。まあ、結果論から偉そうなことを言えるが、自分の人生の決断としては「負け」はたしかだ。ただ、自分は「勝つ」タマじゃねーなというのはわかっているし、大損こくような勝負はしない。
 山本七平が「日本人とユダヤ人」を山本出版から出したとき、出版人としての彼はあれが売れるとは思っていなかった。その分、この本には無防備な部分があるし、その後の「日本教について」もその流れがある。まあ、そのあたりの話はここでふれないが、これがベストセラーになって山本は困惑した。「ベストセラーは悪女の深情け」と言っていた。早々に版権を角川に移した。山本は山本書店を仕事としていたのであって、カネ儲けがしたいわけではなかったし、それにあまり関心がなかった。あのころ山本は、仕事というのは今の仕事が明日も続くようにやる、と言っていた。昨今のサクセス志向では通じないが、団塊世代くらいまではそういう気風があった。
 カネというのは不思議なもので、というか、金利とは不思議なもので、カネがカネを生む。カネ持ちになりたかったら、具にならないで調理人になるしかない。だが、人生の幸せというのは具のほうにあるし、賢者は隠れる。まあ、半分以上に冗談で言うのでこんなところはツッコミ禁止。
 人には器というものがあって、それにちなんだ運命がやってくる。そのあたりに運命の妙味と悲劇というのはある。カネだの、露骨にいうけど、美人だのというのは、そうした器のゲームの彩りであって、歴史の中に消えていく具の人間には縁のないものだし、隠れた賢者は延々とそれを語っている。古典を読めよだけど、それは人生にきちんと敗北した人にとっての慰みであり、世界というものの美しさでもある。世界というのは美しいものだ。カネや美人よりも美しい、そう見えたら生きて見た甲斐があったってものじゃないか、ということだが、まあ、サクセス系からは負け惜しみ。実際、悔恨というは敗北感はつきまとう。
 どういうしくみになっているのかと思うが、まあ、そういうものだ。孔子様いわく40歳でそのあたりの見切りができるのだから、矩を踰えずまでの30年が人の人生というものだし、考えてみれば、人が、男女という桎梏から少し薄くなるのもそんなものだ。というあたりで、人間存在とは不思議なものだと思う。
 話が繰り言になった。戻すと。
 私は年相応に、そして小人(しょうじん)にふさわしく世間を眺め、カネとそれがもたらすバブルを見てきた。相応の痛い目にもあったし、そこからも学んだ。うんとまなんで儲けるにはいたらずだが、それでもこれで二度目。さすがにバブルの手強さはなんとなくわかる。
 前回のバブルで日本経済が焦土になったとき、そこで勝機をえた人たちがいた。今のバブルでも余ったカネが消えるわけではなく、スポラディックにバブルはまた起きるしそこで勝機を得る人がいる。その勝機は難しいといえばそうだし、それが録でもない結果になるのも、まああらかた見た。公平に見るなら私は微細に勝機の側にいた。今度はそうもいかないだろう。勝機と正気はダジャレみたいだが、ようは勝機より正気だ。まあ、たぶんね。