曇り

 午後は晴れるだろうか。なんとなく8月の暑さのせいか、日々がぼんやりとする。なかなか喧噪から逃れることができない。まだ本格的な暑さでもなかろうが、15日を選れば秋の気配がやってくる。いくつか自分の情報関連のツールの構成を変える。夢は覚えていない。バレエでちょっと思うことがあるがあとで書くかも。そういえば、先日マース・カニングハムが死んだ。老衰だったそうだ。そういえばの続きだが、6月3日に坂部恵が亡くなっていた。73歳。自分の人生は失敗だったと思うが、社会的な失敗というべきかそのあたりは自分の考え方にもよるし、運命のようなものはあるのでなんともだが、なにかまっとうな仕事はできなかったものだなというのと、死が見えてくるようになってから、可能なかぎりなにかしたいものだなという思いは交錯する。そこは難しいところだ。今さらに世に認められるとかカネや名声という年でもない。山本七平のことを思う。彼は物書きになる気もなく、仕事としては聖書関連の出版社のおやじでいたかった。若い頃はなぜだろう。あれだけの学識がありながらと思ったものだが、今では彼の気持ちはわかる。そして彼は編集者に請われては書いたが、実際の思いはそこではなかった。じっと現人神を作り出した日本を見つめていた。というか、それが彼の仕事だった。50代半ばで「仕事の合間に、この思想の系譜をたどることが、いつの間にか私の仕事の一つになってしまった」と「静かなる細き声」で書いている。この思想とは篤胤を含む日本の思想だ。そして、人のそういう仕事とは、「育って成果となるか否かは、人が如何ともしがたいことである」として、「しかし、植えられたものに水をそそぎつづけることは人間に可能なのであり、そのことが無意味だと言うことはではないと思う」としていた。彼が出版を志したのは、意志であると書いたところ大いに誤解されたようだ。意志というのは神のいわばプロヴィデンスの内のようなものという感覚が彼にはあったのだろう。そのあたりは、竹田青嗣のいう意志にも近いかもしれない。率直にいうと私にはわからない。最近、なにかと、ああ、それは私にはわからない。それが私なのだとけっこう素直に受け止めていることが多い。反面、自分が、ああ、わかったという部分は、なかなか表現しづらい。