『さらざんまい』初回の衝撃

 一昨日放映された『ざらざんまい』がかなり強烈なしろものだった。想像していた以上のもので、脳幹にしびれるような感覚すらあった。

 そのことについて何か語ることがあるかといえば、ある、といえばある。ただ、それを公開で語るかというとまた別のことだ。

 それ以前に、なにかをネットのような公開の場所で語ることが、おっくうになってきたというか、嫌になってきた。というわけで、この『finalventの日記』も滅びるままにして、最低、Twitterのログという置き場のようにして放置していたのだが、①ログ置き場の機能はなくなった、②「はてな日記」もなくなった、そして③……それはあとで。

 今日、はてな側から過去の『finalventの日記』がはてなブログに移行されたという連絡があった。まあ、放置していて滅ぶにまかせていたのだから、文句をいう類のものではないが、さすがに最低限のデータの移行であったので、多少デザインを設定なおした。そして、これはこれでまた滅ぶにまかせておこうと思ったのだが……③Twitterが事実上終わった感じがある。

 Twitterが、単純に言えば、気持ちの悪い場所になった。それを言うならブログも気持ちの悪い場所になったのだが、最終的にブログは、誰がどう読もうが自分だけが語ればいいという原点に戻ればいい。Twitterは、ただつぶやくのが原義とはいえ、そうもいかなくなった。つぶやきは結局、他者とのコンテクストに置かれるからである。そしてそのコンテクストが気持ち悪いということだ。余談だが、noteは別の意味であまり居心地はよくないがこれはまた別の話で。

 さて、そういうわけで、自分はブログに回帰と思ったが、『極東ブログ』のほうもそれなりに、過去のコンテクストがあり、自分の思いそのままというわけでもない……というところで、例えば、『さらざんまい』について、気楽に何か書くといえば、そうだ、この『finalventの日記』があったかと思いついた。

 で、ここに今日の記念も兼ねて書いておこう。

 

 『さらざんまい』だが、当然、予想されたことだが、各種の考察にあふれてくる。しかたがないし、私が行うこともそれに類することではあるだが、いくつか、考察なるものを読んで、表象と意味の対応をあまりに思想的に捉えすぎているように思えた。ナレーションやセリフのなかに、明らかにジャック・ラカンの影響があるのがあきらかなので、そこから、読み解こう、つまり、羅漢風に読み解こうとする誘惑があるのは避けがたい。しかし、この作品の衝撃性はおそらくそこに一義にはない。なぞなぞではないし、ラカンが無意識をとらえようとした何かとは異なり、作品は無意識を機嫌としてであれ、アートとして表現されたものだ。

 そこで、その次元で捉えられなければならないのは、美術やアニメの芸術的な様式なのだが、そこは省略する。

 ではなにを書きたいのか。以下のようなことである。

 

 「尻子玉」とは何か? これを表象として捉えることはできるし、それに批評的な意味がないわけではない。が、映像や表層メッセージが指しているものは、前立腺であろう。前立腺が快感となることは、当然、肛門性交=つながり、を意味しているし、映像表現はあきらかにそれをなぞっている。

 つまり、欲望はそれが表象であれ、前立腺の快感、を意味しているし、そこにいたる欲望が抜かれるというのがこの作品の原点になっている。

 次に「ア」についてだが、Wifiマークが三本線で「さらざんまい」というしゃれはさておき、吾妻サラの「ア」のメッセージ断片の映像から明らかように、これは「愛(あい)」が記号化され、それゆえに意味が失われたものだ。

 もうひとつの指摘は、主人公3人が生と死の世界の曖昧な領域に置かれていることで、これが「ア」によって「愛」が脱・意味化された世界に通じている。というか切り替えになっている。「ア」をくぐり抜けて、かっぱと死=欲望の世界に少年たちは現れる。と、このあたりは、意味解読というより、単純な記号論である。

 

 繰り返すが、同性愛=肛門性交、の原初的な衝撃性をこのアニメが機動力にしており、その同性愛の本源的な不達成性として、死者が想定される。

 

 まあ、そんなところ。

 

 ってな話を書くのにTwitterは向いてないし、ブログも向いてないなというのを、思い出した。