日経春秋 春秋(2/1) その3

 承前⇒日経春秋 春秋(2/1) その2 - finalventの日記
 やはり詭弁ということですか。「腹イテェェ。失礼。」なんて言いませんよ、なんかそれ、年寄りくさい。いやはや。まあ、しかたないのでしょうね。
 トラバより⇒「finalvent さんの漢字論」珍説を再び斬る(12) - hΛlの女好き日記(2010-02-12)
 基本的な誤解があるので、そこだけは補正しておきましょう。というか、そこが補正されれば、詭弁云々は従属的に消えるはずだし。

(1)まず、id:finalvent は「質」の音符を「斦」としてません。「齗(gin)→祈(ki)、希(ki)→絺(ti)」の例から、あくまでも「斤」としてます。そして、「齗(gin)→祈(ki)、希(ki)→絺(ti)」の例はまさに音符「斤」について述べたものであって、「斦」について述べたものではありません。
(2)そして、「斦」は「チ」にはなりません。「チ」になるのは「斤」です。また混同・混線してますね。
(3)音符の音が変化した場合は、先日書いたように、その漢字の項目において、「シツ・ギン<チ>」というように、変化したあとの音符の音が固有音の横に<>付きで付されているのですが、「斦」の音符を持つ漢字は哲の古字を除いて実質「質」のみなので、音符「斦」の音「チ」など存在しません。
(4)この一連のエントリの最初に書いているのですが(参照)、「質」が形声字であるというのは一説であって、デフォルトでは会意文字とされています(こんなの基本中の基本ですよ。)

 (1)いや、「質」の音符は「斦」だけど「斤」と略記してもこの場合は変わらないから、略記しただけのことだし、山田氏の説明もそれが前提になっている。このことは、「「齗(gin)→祈(ki)、希(ki)→絺(ti)」の例はまさに音符「斤」について述べたもの」だからこそ。このことは(2)へ。
 (2)だから、「斤」で略記してもよいと思った。それは今でもそう理解している。そして、「斦」の音指標が「斤」の音変化で山田氏が例示されていることからは、「質」の音指標である「斦」の音価が「チ」であり、これは「ギン」から変化したと彼は理解しているから。
 (3)ここは基本的な誤解がある。「質」という漢字の音価は最初から「チ」だから。なぜ「斦・斤」の音指標が「チ」なのかを山田氏は例証したかった。
 (4)「デフォルト」の意味がわからないが、通説に会意であることは知っている。私は山田説を取って形声としている。私見を述べれば、「質」は会意として創られたが漢字としての機能を共時的に持つとき音義から変化したのかもしれない。そしてその機能性からみて形声と山田氏がされたのかもしれない。
 
 原典を参照され、以上が理解できれば、かなりの部分、氷解すると思いますよ。そしてその氷解は、漢字というものがなんだったのか、愕然とした理解を促すでしょう。
 

追記
 トラバもらった。最後のオチに笑った。元気が戻ったみたいでなにより。持説に自信があるんだろうね。
 ⇒「finalvent さんの漢字論」珍説を再び斬る(13) - hΛlの女好き日記(2010-02-13)

ボコボコにされてる人が「今日はこれぐらいで許してあげよう」と言ってる AA なかったっけ。つまり、ガイドラインでいくとこれね。
 
>※詭弁の特徴のガイドライン(参照)
>13:勝利宣言をする
笑笑笑。

 つ 鏡。
 
 論点は特になし。「広韻」の話は、「質」の音価が定まったのち、日本ではどう受け止められたという話としては面白いけど、別の話だよ。
 で、論点なしなのは。

山田氏は「質」を形声字として解釈してない。なぜなら「齗(gin)→祈(ki)、希(ki)→絺(ti)」の図式に「質」を絡めたのは id:finalvent 自身であって山田氏ではないから。

 まあ、原典確認してごらんを繰り返すだけなんだけど。
 ただ、ちょっと補足しておいたほうがいいかなというのは一点あって、山田氏の議論を若干逸脱するかなと危惧するのだけど、音指標としての「斦」というのは、機能的に見て、ないと言ってもいいんじゃないかな。これは普通の感覚の人でも詭弁みたいに聞こえるのを恐れるけど、実質、「斦」が音指標に使われているのは「質」だけで、そしてその場合でも「斤」と扱ってよいのではないかな。ただ、ここでちょっと注意しないと変てこな誤解になるのだろうけど、「斤」が音指標というとき、音価が一義という意味ではない、これは通時性が関連するからだろうけど。
 まあ、なんというか、一度書店に行って、山田氏の本を立ち読みすれば、終わる話だと思うが。
 

追記
 日曜日は休めたかな。リキ入っているみたいだけど。
 ⇒「finalvent さんの漢字論」珍説を再び斬る(14) - hΛlの女好き日記(2010-02-13)

額に「卑怯」とか「屑」って書いてないですか? 「元気が戻ったみたいでなにより。」って…ああ、自分が優勢だというのを表現するために事実を曲げて相手を貶めるやり方か(笑)。

 いえ、自分が優勢だなんて思いませんよ。文章の気迫を比べてみたら誰もわかると思いますよ。ただ、「額に「卑怯」とか「屑」って書いてないですか? 」これは、私が卑怯であり、屑ってことですよね。
 で、罵倒の修辞はさておき。
 やはり論点は、というとやはり、ないんだけど。
 相当ひどい曲解があるので、そこは指摘しておくかな。

私が一貫して行ってきた批判は「音が同じだから意味も一緒」という理論のバカバカしさの指摘でした。まあ指摘するまでもなく、普通の知能を持ってる人ならこの論理のおかしさはすぐわかるはずなのですが。「恥チ」「血チ」「池チ」「地チ」「知チ」「遅チ」は、「直チ」と同じ音「チ」を持つから、その意味は「直チ」の意味と同じで「相当する」の意、なんて子供でもそのおかしさはわかりますからね。

 それはなるほど「バカバカし」いよ。そして、私はそんなことは言ってませんよ。
 「質」の音価は「チ」で、この「チ」の音価が担う意味は「直」だと山田氏が書いているのを私が受け入れているというだけのことです。他の「チ」ついてはまったく言及していないし。
 
 で、以下、以前の話の蒸し直しだけど、ご指摘されているような「矛盾」はないよ。
 つうことで略でもよいのだけど。まあ、確認がてら繰り返しておくと。

id:finalvent「言語運用の視点からは漢字はすべて表音文字。意味を担っているのは、その音価。」⇒「恥チ」「血チ」「池チ」「地チ」「知チ」「遅チ」「直チ」など考えるまでもないトンデモ

 私の発言部分は正しいと思うよ。そして、その駁論ははずれていると思う。一つの音が一つの意味を持っているわけではないし、それこそ四声のような差もあるだろうし。

id:finalvent「数えるという言語運用において、『数字は表音文字になる(機能する)』」⇒数を数えるという作業において文字は介在しないのでこれもトンデモ

 これはどうして駁論のつもりでいるか依然理解でないでいる部分。

id:finalvent言語学は音声言語だけのもので、『文字言語』は概念としても存在しない。」⇒「書記言語」も「文字言語」も言語学の概念としてちゃーんと存在するのでこれもトンデモ

 「文字言語」なんてものは存在しないよ。それは、"Written language"の訳語であって、languageを二次的に書き起こしたという意味なんですよ。

id:finalvent「日本語における漢字だけが表意文字」⇒漢語と和語について考慮されてないトンデモ

 「だけ」とは言ってないが。ただ、漢語は日本語だよ。「和語」についてはまるで言及してない。微妙に話が明後日にねじれていく。

id:finalventt「漢字の面白いところは、異民族には表意文字として機能し、その異民族の言語の音価が与えられるところ。」⇒「異民族の言語の音価が与えられる」のは日本の和語だけ。稀な例を一般化するトンデモ

 関心ある人は「中国意外史 (Shinshokan History Book Series): 岡田 英弘」(参照)を読むとよいよ。

id:finalvent「ラングではシニフィアン音価だけ。」⇒シニフィアンは文字と音声 (wikipedia:シニフィアンとシニフィエ)

 そのとおりだが。Wikipediaの解説はシーニュについてであって、この文脈(ラング)ではその指摘は失当なのだが。

id:finalventt「(記号論は)やるきになればパロールでも成立するかもしれない」⇒ 【ソシュール記号論シーニュ/シイフィエ/シニフィアン】はラングの中でしか語りえない。

 私の言及はあっているけど、批判部分は意味をなしていないよ。記号論が土台になってソーシュールの言語学つまり近代言語学ができる。

id:finalvent「『言語のルール』と『文法』は違う」⇒同じです

 ちがうよ。言語がラングを指すなら、ラングはルールを含むので「ルールのルール」となってナンセンスだし、ランガージュを指すならそれは重層的であって文法だけではないよ。このあたりは、概念の扱いがめちゃくちゃのまま批判されている。

id:finalvent「ラング研究をするには、記号論が前提的な方法論になる」⇒ 言語学には、音韻論、形態論、統語論、意味論、語用論、音声学、記号学…etc.とあるわけで、ラングを音韻論の観点から研究するのに記号学は必ずしも前提にはなりません。

 これも面白いな、言語学の重層的な諸分野はすべて記号学をベースにしているんだよ。
 というわけで。

難解な抽象概念を持ち出して煙に巻くつもりが、逆におバカ発言の論理矛盾を突かれて、記号論についての自らの理解の浅さを晒したあげく敗走。勝負あったという感じで、このあたりから id:finalvent の言葉数が少くなって敗走ループ開始。

 難解だったかな。
 もう少し近代言語学の基礎事項を知っているかと思って、そしてその基礎からきちんと説明すれば通じるかと思っていたんだよ。
 それと勝負なんか考えてないし、敗走というより、ああ、このレベルから通じてないのかという落胆があるよ。まあ、敗走というなら、はいそうですか(駄洒落)。

(1)山田氏に倣って、音符「斦」を音符「斤」に略し、図式「齗(gin)→祈(ki)、希(ki)→絺(ti)」に「質」を絡めた、という強弁
音符「斦」を音符「斤」に略記してはいけないし、山田氏も略記してない。よって上の図式で「質」の字を解字できない。音符「斦」と音符「斤」は、音・読み・意味、いずれをとっても異なります。山田氏が「略記」したとしてるのは id:finalvent の完全な思い込みです。山田氏はそんなことはひとっことも書いてない。なぜなら、音符「斤」の音の変化を例証した「齗(gin)→祈(ki)、希(ki)→絺(ti)」の図式に「質」の字を絡めたのは他ならぬ id:finalvent 自身であって、山田氏はそれに関わっていないからです。山田氏が関わってないことは、下記の id:finalvent の発言により、この図式に「質」の字を絡めたのは他ならぬ id:finalvent 自身であることによって明らかになってます。

 「なぜなら」以降の理由付けが違っていて、話になっていないし、そもそもこれは山田氏の書籍を参照すればこんなへんてこな議論は不要ですよ。

(2)「斦・斤」の音に「チ」があると強弁
「齗(gin)→祈(ki)、希(ki)→絺(ti)」から「斦・斤」の音に「チ」があるとは導き出せない。また、実際に両音符に「チ」の音は存在しない。「齗(gin)→祈(ki)、希(ki)→絺(ti)」の図式は、音符「斤」と音符「希」の音の変化という2つの系統の音の変化を示した図式であって「ギン」という音が「チ」という音に変化したことを示すものではありません。斦の音は「ギン・シツ」であり、斤の音は「キン・ギン・キ」。下記は id:finalvent の勝手な思い込みで山田氏の認識ではなかった。

 ここは前回書いたからもういいでしょ。「質」の音指標は「斤(斦)」でその音価は「チ」。それは共時性の話。「導く」というのは違って、音変化(通時性)的な説明。

ま、「ポゴ・レリーチ(註:正しくは、イーヴォ・ポゴレリチ)は素晴らしい!」と聴いたことのないピアニストをさも聴いたことがあるかのように賞賛できる才能を持ったお方ですから、何を書いても信頼性に欠けるのは明らかなのですけど。

 それは、「というか」の多様的大問題ですよね。
 
 ではでは、新年好!
 
追記
 きちんと睡眠とれたかな。
 ⇒「finalvent さんの漢字論」珍説を再び斬る(15) - hΛlの女好き日記(2010-02-14)
 循環しているだけで、論点はないのだけど。
 それと、finalvent批判をしたいが「ため」の批判で、しかもその「ため」方法論で山田氏の議論を分離しようとしていて無理がたたって、あとは罵倒の修辞の嵐に逃げ込んでいるだけにしか見えないのだけど。
 でも、その急所は確認しておくと。

ではなぜ「チ」の音の意味を「恥」でも「血」でも「池」でも「知」でも「値」でもなく「直」と判断したのですか? 一つの音が一つの意味を持っているという考えに基づかなければ、こうした判断は生まれないはずですが。

 それは、山田氏の考察を受け入れたからという以上はなく、「一つの音が一つの意味を持っているという考えに基づ」く前提はまったく不要。
 ではなぜ私が山田氏の考察を受け入れたか、というと、他の論者より言語学方法論でしっかりしているからということ。(山田氏の書籍を読んで、それへの批判を加えたほうが生産的だと思う。)
 で、なにより「チ」が「直」なのはなぜか、については、私はわからない。そこは、山田氏の議論を逸脱していないだけのこと。(ただ、これは画期的な視点だなと驚愕をもって受容した。)
 そんだけのこと。
 
 あと、にやにはは、どうするかな。

その論法で行けば音声言語は「Spoken Language」になるんですけどね(ニヤニヤ。文字言語は音声言語から派生したのは明らかです。しかし、言語を構成するものとして、ちゃーんと言語学の研究対象に措定されている。強弁もほどほどにしたほうがいいですよ。Wikipedia でも言語学の参考書でも調べられたし

 やっぱり言語学がまるでわかってないんだなというのが確認できちゃって、にやにやよりとほほなんだが、「Spoken Language」は「話し言葉」で、これは言語学の対象にはならない。というか、これはパロールだから。
 あとは挨拶代わりに。

そうそう、「ポゴ・レリーチ」虚言事件(笑)。こればっかりは「イーヴォ・ポゴレリチタイプミスしてポゴ・レリーチと書いてしまいました」なんて言った日には失笑モノですしね。それにしても、ポゴさんかぁ。id:finalvent の語感って面白いな。

 「というか」の多様的大問題をもうなかったことにしてしまうほど面白くないのが残念なところ。
 三寒四温、体調をくずさないように。
 
追記
 振り出しに戻るの感で、だいたい論点は終わったみたいだね。
 ⇒「finalvent さんの漢字論」珍説を再び斬る(16) - hΛlの女好き日記(2010-02-14)
 まあ、新味のある話はないです。山田勝美「漢字字源辞典」(参照)を参照すれば、大半の話は終わると思います。その時はまたトラバでもお知らせください。
 春節をお楽しみあれ。