日経春秋 春秋(2/1)

「質」という字は、おのを表す2つの「斤」と「貝」から成る。白川静さんの「常用字解」によれば、「貝」の形は古代中国で儀式の道具に使った鼎(かなえ)から来ている。質とは、鼎にふた振りのおので、重要な約束を刻むことなのだそうだ。

 また白川静さんか。
 「貝」の形は貨幣の意味を表す。これに音を示すのが「斤」(ギン)。ギンがチに音変化した。元の音の意味は、「直」で「相当する」で、対価の意味。つまり、カネに相当するものが「質」。そこから実体の意味が出て、「質量」などに使われる。
 漢字は象形文字と言われるけど、言語として運用されるときは音価に意味が課せられる(筆談するわけじゃないから。象形文字であっても音価の指標になるだけ)。(ただ、白川学を弁護すれば、漢字の発生字の呪術の解明とも言える。それでも、言語として運用される漢字には関係ない。)

cover
漢字字源辞典: 山田 勝美, 進藤 英幸
 
追記
 ⇒はてなブックマーク - 日経春秋 春秋(2/1) - finalventの日記

style_blue finalvent, 言語, 言葉, 読み物 反論→ http://mephistowaltzer.co.cc/t/20100201.html#p04 2010/02/03

 ⇒「finalvent さんの漢字論」珍説を再び斬る - hΛlの女好き日記(2010-02-01)
 すまん、なにを批判しているのか皆目理解できない(誤字脱字、直訳の誤りとかの指摘だとわかりやすいが)。
 私の考えを繰り返し書いても、すでに書いたことばかりで、それで通じてないみたいなので、なんともしがたい。
 六書は前提知識に織り込んでいる。言語運用の視点からは漢字はすべて表音文字。つまり、それは音価のコピーでしかない。そして、意味を担っているのは、その音価。では、漢字という象形は?ということだけど、音価の指標でしかない。ただし、その指標の形態がどのように当初創作されたかという議論はあるけど、言語運用においては関係ない。このことは音価さえ維持できれば、別の漢字を使ってもたいして問題ないことから自明。実際に中国語の漢字はそのように音価を軸に入れ替わってきている。
 あと、漢字は表意文字だけど、言語運用においては、異言語間のエクリチュール(権力の道具)として機能する場合であって、その場合、漢字で書かれた文章はその土着の音価が付与される(朝鮮での運用が示唆的)。でも、ネイティブでは漢字は表音体系でしかない(だから毛沢東は漢字を廃棄したかった)。ただ、同音を使い分けるのは、意味の弁別や呪術性を込めるというのはある。「さまよう」を「彷徨う」とか書きたい人がいるようなもの。あと、実際には漢字二字以上の熟語で音価を維持することが多いので、その意味の取りやすさを狙って多様な漢字表記が利用されることになる。
 それと、「そして決定打的なことをここで言わせもらうと」なんだけど、切韻音系では漢字の音価の祖型は考察できないよ、原理的に。なので、推定が入るのはしかたない。問題は、音価を中心にシステマティックに推定するしかなく、山田の考察が優れている。
 あと、漢字は言語運用上は表音文字なんだけど、不十分な表音文字なんで、そのあたりの不備は近代日本の言文一致運動の影響から逆に変化している。
 
追記
 トラックバック受信⇒「finalvent さんの漢字論」珍説を再び斬る(2) - hΛlの女好き日記(2010-02-03)
 個別に追ったほうがいいのかな。ほいでは。

つまり、数字も表音文字になるんだ、id:finalvent の理屈でいけば。id:finalvent の理屈からするとこの世から表意文字がなくなっちゃうねぇ(笑)。

 数字は表音文字になる。音価が与えられるから。しかし、音価との対応は恣意的、あるいは文脈依存。つまり、シニフィアンとしてラング的に支配されていない。そしてシニフィエを担っているのは、その概念やシンボル。なので、これは表意文字的に理解される。日本語の漢字もそれに似ている。「川」は「かわ」「セン」というように。しかし、中国語では、漢字はすべて一つの音価しかもたない。なぜなら、それは中国語のラングでは表音文字だから。

「その指標の形態がどのように当初創作されたかという議論」それこそが、意味と文字を結びつけるステップだよ。

 それは共時性と通時性の混乱。言語システムは共時性において考察される。原初の漢字がどのように成立されたかは、ラングにおける言語の運用には関係しない。漢字の成り立ちは後から六書的に追認的に理解できるが、そのことは表音文字である共時性の漢字の運用とは関係ない。

id:finalvent は最初期の「音⇒意味」のところしか視野に入ってこないから、おかしなこと言ってしまう。つーか意固地になり過ぎ。

 「最初期」は共時性において考察の範囲外。まあ、白川さんみたくいろいろ独自に考察されてもよいけど、言語研究の範囲には入らないし、言語としての漢字の研究にはならない。つまり、漢字の意味の研究にはならない、と思う。

音だけを独立させて意味と対応させて完結させ表音文字とするなんて少なくとも私はそんな学説を目にしたことはない。

 「表音文字とする」は奇妙な語感があるけど、言語はすべて音声で研究し、書記システムは付随的に扱う。これは言語学の基本であって学説以前だから。

あれ、今度は「漢字は表意文字」としてるし(笑)

 文脈をよく読まれたし。漢字はラングの外では、つまり、日本など異言語圏では、エクリチュールによる支配のシステムとして表意文字として機能しているということ。ここが漢字の面白いところで、基本的に異民族支配のためのエクリチュール・システムとして帝国幻想と付着したから、こんな変な不合理な書記が残った。

中国のローマ字運動は19世紀末から拡がったもので、毛沢東が急に言い出したわけじゃない。

 文脈をよく読まれたし。毛沢東が言い出したとか言ってない。ではなぜ毛沢東がそうしようとしたか、ということ。実は、当時の中国人の大半は漢字が読めない。漢字が読めなくても、まったく問題ない状態だった。中国語は音声だけで成り立ち、表意文字を必要としない。言葉の意味は音価がすべて担っている。では、漢字とはなんだったかというと表音文字だった。だから、もっと合理的な表音文字にしようとした。

山田勝美さんが著書の中で採用してる音って呉音・漢音じゃないの?

 ご関心があれば参考書を読まれたし。

あと、山田勝美さんと勝負しようとか大それたこと思ってないから、比較してもらわなくても結構ですよ。恥ずかしすぎる(~o~;

 私はこの圏で、山田説以上のことは言ってないですよ。あとは言語学の基本だけ。

・音符を間違えている(斤 キン ⇒ 斦 ギン・シツ)
・「斤」の音を間違えている(ギン ⇒ キン)
象形文字「斤」の意味を指していたかもしれない「キン⇒チ?」音と 象形文字「直(なおす、ただす、相当する…etc)」の意味を指していたかもしれないチ音を混同してる
・「斤」(キン⇒チ?)の声調 と「直」(チ)の声調が考慮されてないので、同じ音価とは確定できない

 音符については斦と書くべきだったが、「近」「新」なども同系で「斤」が充てられるので略した。山田氏も結果的に両者を同一視しているので、そう了解。
 「斤」の音については山田氏による。
 後者二点については、私は問題点が理解できない。
 
 以上。でいいかな。
 もしかすると、私を「アルファブロガーだから」とかで罵倒したいというモチーフの実践でエントリを書かれているなら、勘弁してね。糞ブロガーのひとりですよ。そのモチーフなら、ほっといてくださいませ。世の中にはバカが多いもんです。そんなのがひとりががなっていったて気にするな。女好きとのことなら、そっちに邁進・精進・研鑽あるべし。(言うまでもないけど、俺、男な。中年のおっさん。)
 

追記
 トラックバックもろた⇒「finalvent さんの漢字論」珍説を再び斬る(3) - hΛlの女好き日記(2010-02-04)
 ほいじゃ、ぷちぷちと。

数字は表意文字です。表音文字などと言ってるのは世界中探してもアナタ一人ですよ。

 ええ、数字は表意文字ですよ。言語システムのなかで、たとえば、数えるという言語運用において、「数字は表音文字になる(機能する)」音価が与えられるから。(以下略)です。

じゃあ、アナタの認識する表意文字を挙げてくれよ。

 日本語における漢字。

アナタが「音⇒意味⇒文字」の「音⇒意味」のステップを抜き出して「表音文字だ」と言ってる限りは、この世の中に表意文字というものは存在しないことになるから(笑)。

 言語運用においては、書記系はすべて表音を示すもの。それが、音価を移した表音文字か、シンボルを意味評価したのちに音価が付与される表意文字かの違い。

「その指標の形態がどのように当初創作されたかという議論」というのは id:finalvent が書いたことで、「当初創作された」というのは、意味と文字が結びついたその瞬間の話で、アナタの言う共時性の話でしょ。

 逆。それは通時性。

ええええええ。「最初期」こそ共時性(同時性)の問題じゃないの。

 通時性。

まさに「音⇒意味⇒文字」の「音⇒意味」こそ、アナタの言う「言語の運用」の場面、つまりは、話言葉として言葉を発する場面に立ち現われる現象

 それは共時性

なんで白川静にそんなに拘るのかなぁ。

 そこはたしかに何でなんでしょうね。学問的にトンデモと思っているからかな。

言語学の話ってのは音声言語と文字言語を統括した話

 いえ、音声言語だけ。「文字言語」は概念としても存在しない。あるのは書記システムであって、言語学埒外

あーもうソフィストのエンジンかかりまくり(トホホ。その時代の優勢な国家の言語が他の国でも使われて「異民族支配的」になるのはなにも漢字だけの話じゃないでしょうが。ギリシャ語もラテン語も同じでしょ。

 ギリシア語もラテン語も異文化間において表意文字としての機能はもたない。全然別。

d:finalvent は山田説なんて書いてませんよ。

 いえ、山田説を逸脱してないですよ。

漢字学者である山田勝美氏は同一視はしてないはずだよ。印刷の関係じゃないだろうか。

 「印刷の関係」を言うなら私も略記しただけのこと。ただ、印刷の関係ではなさそう。

漢字には声調があって、声調が違えば意味も違う。音価を比較するというなら、声調についても触れなきゃいけないのに、それには全く言及してない。声調について知らなかったんだろうな(後出しジャンケンで「いや知ってた」と書かれそうだけど笑)。

 切韻音系では漢字の音価の祖型は考察できないよ、声調を含めて。

しかし、id:finalvent のブログは幸か不幸か比較的多くの人に読まれている。そして、その中で、明らかな間違えを堂々と述べていることが少くない。

 それは私がバカだからですよ。ただ、「堂々と」ということはないと思う。チラシの裏に書いているわけだし。
 
追記
 ⇒「finalvent さんの漢字論」珍説を再び斬る(4) - hΛlの女好き日記(2010-02-05)
 まず、根幹が違っているので、そこから。

たぶん、id:finalvent は言語の意味を取り違えてる。言語ってのはコミュニケーションのシステム全体を指すんであって、話言葉など音声言語だけの話じゃないんですよ。そもそも言語学は当初、書記言語しか対象にしてなかった。コミュニケーションのシステム全体というのは、何度も×4 書いてるけど「音⇒意味⇒文字」の一連のコースのことですよ。

「たぶん」がはずれていますよ。まったく違います。「言語ってのはコミュニケーションのシステム全体を指す」なんてことはないです。それは言語活動(ランガージュ)。で、言語とはラングのこと。
 ラングにおけるシーニュは、「音⇒意味⇒文字」ではなく、「音(シニフィアン/意味(シニフィエ)」の組が一体になったもので、文字の介在はなく、ましてコースないしプロセスなんてものはありませんよ。 

まずはググってみたらいかがかな、「音声言語 文字言語 言語学」でも。大学院の言語学コースの論文などもでてますねぇ。筑波大学大学院人文社会科学研究科の人の論文2ページ目⇒ http://www.lingua.tsukuba.ac.jp/~ippan/JELS/2009/2009_Ikeda.pdf にも 言語 = 音声(言語) + 文字(言語) って図表があるので、どーぞお確かめください。

 これ読んでみた? 従来にない言語学を創出しようという意気込みのエッセイであって、ほぉ、気鋭の学者さんか学生さんかなとは思うけど、言語学の基本の話にはなりませんよ。
 
以下、個別に。

中国古来の漢字音を用いた漢語は?

 漢語は日本語。中国の漢字システムとはまったく別。

文字がない場面で表音文字が機能?

 「文字がない場合、数の概念は表音される」ということ、そしてその表音を書記した場合、数字という表意文字音価が与えられて表音文字として機能するということ。

ギリシア語もラテン語も異文化間において表意文字としての機能はもたない」けど「異民族支配のためのエクリチュール・システムとして機能」はしてるんでしょ。姑息な揚げ足とりはケッコーです。

 私は売り言葉に買い言葉はしないことにしているので、そこはなしにして、言語に関係ない単なる支配の現象を述べて、姑息とか言われても。
 「異民族支配のためのエクリチュール・システムとして機能」だが、支配側の言語の書記システムに依存されているかが論点。ラテン語の書記をゲール語とかで読み下せるとかいう現象はないんじゃないか。
 漢字の面白いところは、異民族には表意文字として機能し、その異民族の言語の音価が与えられるところ。実は、この性質は中国内の多民族にも適用する、というか、そのために漢字という支配の書記システムができた。こういう書記システムは他に例がないと思いますよ(私は知らない)。

だから略記しちゃいけないんですってば。「斦 (ギン・シツ)」と「斤(キン)」は別の音符なんだから、形が斤一個だから二個だからって略せるはずないじゃないですか。だって、一個か二個かで、意味が違ってくるんですから。

 漢字の表音性においては同一の機能をしていると山田氏は見ているから、斤の例も挙げているのだと思いますよ。

なぜなら、声調によって漢字の意味が変わってくるのだから。

 そこまでは、切韻音系では漢字の音価の祖型は考察できないよ、です。
 話がおかしくなっているのは、音符と漢字の混乱があるからではないですか。

・音符を間違えている(斤 キン ⇒ 斦 ギン・シツ)

 ここは、「音符」ではなく「漢字」という指摘ではないかな。ある時代に、この二つの漢字は別の音価を持ったということと、山田がある時代に「質」の音価を「チ」としたというのは別の話ですよ。

さて、セクハラへの謝罪がなかったことと以下の返答がまだないですね。

 これはわからん。なんかセクハラしていたか。理解したら謝罪するよ。思い当たるとすると、「女好き」というのでつい男性だという憶測を持っていたのはある。自分はありがちなヘテロなんでそういうところに偏見がある。そこは悪かったなと思う。私はよく言われるが、女に優しくない。
 山田氏のこの件については特にこれ以上の言及はないし、彼の考え方の総体は著書を読まれるしかないのでは。読んでみたら。面白いよ。


追記
 トラックバックもろた。はいはい。ではでは。
 ⇒「finalvent さんの漢字論」珍説を再び斬る(5) - hΛlの女好き日記(2010-02-06)

シニフィアンはイメージや概念を担う記号表現で音だけではなく文字も含みますよ。⇒wikipedia:シニフィアンシニフィエ。よって id:finalvent の論理は前提からして破綻。

 あはは。シニフィアンシニフィエラカンなんかの議論を見てもわかるように、それだけ取り出せば、意味するものと意味されるものだから、文字も含みますよ。ラングにおいてシニフィアン音価になるというということなんですよ。ラングにおけるシーニュの特殊性から言語の研究が始まるんです。

あのね、言語学の研究領域に音声言語と文字言語があることは前提になってて、その二者の関係の認識の仕方の違いをここでは言ってるだけでしょ。広辞苑、マイペディア、大辞泉から wikipedia に至るまで「言語」の定義は「音声と文字を含むもの」または「記号体系」だから、もういい加減あきらめなさい(笑)。

 大学などでの「言語学」科目の領域にあるのは確かですよ。ただ、言語研究の対象ではないということ。少なくとも近代言語学の祖であるソーシュールの原則に則った言語学ではないよ。

あくまで「文字の介在はなく」と言い張るんだったら、そうした説の典拠を明らかにしてみなさい。まあできないだろうけど(~o~; で、「文字言語」って調べたらあった?

 「文字言語」なんていう言語(ラング)は存在しないですよ。それは、Written languageの訳語であって、languageを二次的に書き起こしたという意味なんですよ。

日本語の話をしてるんですってば(~o~; 「日本語における漢字」の話でしょ。話を恣意的に切り出すのは止めなさい。それとも本当に国語力がない人なのか?

 いえ、日本語の話なんかしてないですよ。漢字というものが、中国語と日本語でどのように機能しているかという話です。「質」という漢字にどのように意味が付与されているか(中国で)(音価を介在して)、それがいったん付与されたから、日本語でも表意文字として機能しているわけです。

id:finalvent は最初に「数えるという言語運用において」と断ってるわけだが、数を数える行為に文字は関わってないだろうに。「表音を書記」するというプロセスは「数える」とは別のプロセス。(幼稚園児かいな、トホホ)
「数を数える」という行為と「数を数字に記す」行為は別のプロセス
数を数える行為において文字は介在してないから、そのプロセスで「数字は表音文字になる(機能する)」なんて表現は、論理が破綻している。次。

 ここは単純に意味不明。
 意味不明なところはスルーしてきたんだけど、まあ、誤解されるので、書いときますね。ちなみに、数えるとき、「ひとつふたつみっつ」って言わないんですか。いや、「いちにいさん」とか言うとか反論?

話題の本の書評みたいなものを書いてる id:finalvent水村美苗の『日本語が亡びるとき』を読んでるんじゃないかと思うが、id:finalvent の言う「異民族支配のためのエクリチュール・システム」は水村の言う「普遍語」の作用と同義で、国境を越えて「知」が共有されるときに、それを担う言語体系ということでもある。

 全然違いますよ。これは前回に書いたとおりなんだけど。
 漢字というのは、異なる言語を持つ民族に意味を伝える手段(支配の手段)として、その帝国的な機能を持っているということです。ラテン語ゲール語で読み下しているなんてこないでしょ。
 水村美苗さんの議論は、以上のことは別だし、話をややこしくするのでパス。

何を言ってるんですか。id:finalvent は「質」の音符を「斤」と書いた。その音は「キン」だ。しかし、正しくは「質」の音符は「斦」だ。その音は「ギン・シツ」だ。これを同じに扱っちゃダメでしょ。id:finalventも「音符については斦と書くべきだった」と書いてるのだが、これ撤回するのか?

 いえ、音価の標識として山田氏は、「斤」と「斦」を区別していない。なので略記しただけのことです。
 「斤」という漢字と「斦」という漢字が、ある年代・地域で別の音価を持っていたという議論とは、別のことです。

「切韻音系では漢字の音価の祖型は考察できない」と言いながら、実は自分自身が「切韻音系で漢字の音価の祖型を考察」してしまったことなんだね。以下。

 いえ、山田氏が祖型を考察しているのだと私が理解しているだけです。それ以上の解釈を私は加えてませんよ。
 あと、いろいろ書かれているけど、前提が違っていて、理解できない。というか、なんか全然違う議論を熱心されている気がする。

頑固な偏差値55を一所懸命正解に導いている徒労感を感じるなぁ(~o~; そうそう、「語るに落ちた」な部分もあったね(笑)

 まあ、そう思われているなら、私の学生時代の偏差値がいくつだったかは書かないことにしておきますね。
 セクハラの件だけど、よくわからない。「女好き」と書かれているので、だったらそちらに邁進したらというくらいのことだけど。「男の尻じゃなくて女の尻を追っかけてろ」とか言ってないけど。逆に「id:finalvent がハゲでデブでチビで加齢臭が漂って、女性が外見で興味を持たない人かもしれない」とか言われているけど、俺。まあ、当たっているのでしかたありませんね。
 まあ、論点をまとめると。
・ 音価の標識として山田氏は、「斤」と「斦」を区別していない。
・「斤」という漢字と「斦」という漢字が、ある年代・地域で別の音価を持っていたということと、「質」の音価の議論は別です。
 

追記
 ほぉ。という感じ。では。
 ⇒「finalvent さんの漢字論」珍説を再び斬る(6) - hΛlの女好き日記(2010-02-07)

id:finalventソシュールなんて理解できんのかなぁ。

 その気持ちはわかりますよ。

で、ラングというのは言語のルール系 or 構造態 or システム といった社会で共有されるコード、諸言語に共通して見出せる性質

 ぶー。ラングというのはごく簡単に言えば文法のことです。だから、Paradigmatic analysisとSyntagmatic analysisの対象になるわけです。
 インスパイアされた思想家達が、ソーシュールから「言語のルール系 or 構造態 or システム といった社会で共有されるコード、諸言語に共通して見出せる性質」という比喩を使ったということ。ただ、ドゥールーズなんかもその手の誤解をしているから、けっこうありがちな誤解。

パロールは、もっと個人的で揺らぎのある言語

 ぶー。簡単にいえば、ラング=文法によって、個々のコンテクストで発現される文の産出のことです。それには、コンテクストによって「揺らぎ」もあるかもしれないということ。ところで、「揺らぎ」って何だ? そんな概念あるのか?

ソシュールは言語をラングとパロールに分けてる以上、言語システムであり構造態であるラングの外で語る記号論なんてないのだ。

 ぶー。「構造態」ってなんだか皆目わからないが、「ラングの外で語る記号論」というのがナンセンス。ソーシュールは、近代言語学を創出するにあたり、まず、その礎石として、一種のGeneral Semioticsを形成する。ここは後の思想家にいよいろインスパイアする部分になる。で、そのGeneral Semioticsのなかで、言語というものを特定していくなかで、ラングの概念を確立する。まとめると、記号論のなかでラングが特徴付けられているけど、ラング対象とは異なる記号論とかはあるし、ラカンとか以下略。

パロールという個人的な言語を対象にした領域では記号論を語れない

 記号論はGeneral Semioticsとして成立するから、やるきになればパロールでも成立するかもしれない、というか、John Langshaw Austinなんか結果的にそういう仕事をしている。ただし、これは哲学の分野。言語学とは言い難い。

繰り返すが、記号論シーニュ/シニフィエ/シニフィアンはラングの中でしか語れない、成立しない。

 だから、それが全然違うわけですよ。なので、そのあとに「従って、」とする部分以下は全滅。
 たとえば、そういう変な前提で。

その前提で言えば、ソシュールのラングはランガージュをさらに峻別して出てくる概念です。そういう意味では、

 ぶー。ありえないって。ランガージュを「峻別」ってなんの意味ももっていない。ラングがどのように概念措定されるか、その方法論がまるでわかってないでしょ。

ラングは言語のシステムであり社会コードであり、構造態なのだから表記体系としての文字言語 or 書記言語はシステムに包摂されるに決まってるじゃないですか。

 このあたりも壊滅的間違い。たぶん、「システム」という言葉に酔っているのだろうと思う。いわゆる哲学畑の構造主義者もこういう言い回ししちゃうんで、悪影響を受けるのもしかたないなとは思うけど。で、「書記言語」なんてものはないのね。でも、書記システムは存在する。正書法とかιの付け方とか。でも、これはラングの外部の問題。言語学の範疇ではない。音声をいかに模写するかという一つの歴史的な偶然の産物にすぎない。

そもそもラングを「文字言語」として訳出してる場合もたくさんある。文字言語というのは先行する音声言語構造態から派生する文字を媒介にした言語構造態であり、表記体系なのだから、言語の構造態としてのラングとなんら矛盾しないし、それと一致してると言ってもいい。

 うーん。面白いなぁ。でも、ありえないって。

ラングが言語構造態であるように文字言語も文字を媒介にした言語構造態なんですよ。

 あいもかわらず「言語構造態」が皆目わからないけど、そもそも文字言語なんていうものがありえない。
 まあ、前提が全然違うのでこの話はここまでとして。

いやいやいや、アナタは「日本における漢字」の説明として「シンボルを意味評価したのちに音価が付与される表意文字」と書いてた。それを微妙に言い回しを変えてきたわけですね。

 このあたりで詭弁とかいろいろ弄されているのだけど、私は皆目わからない。

上のアナタの新たな謂いだと、音と意味のセットになった漢字が日本にやってくるわけですが、日本には大和言葉があって、漢字の音と意味のセットは必ずしも、そのまま運用されないで文字に新たな音(読み)が与えられる場合もあります。しかし、一方で、そのままの音+意味のセットで運用することもある。前者が和語で後者が漢語なのだけど、漢語の場合は、中国にあったものそのままなんだから、あなたの言う表音文字になってしまって表意文字にはならない。

 わからん。何がわからんかわかろうと努力するに、「漢語の場合は、中国にあったものそのまま」というあたりだろうか。私は、漢語は日本語だと言っているのだが。
 というかやはり言語システムというものがよくわかっておられないのではないかな。「中国にあったものそのまま」というのがありえないのだが。というか、そのままなら、そんまま日本で中国語がわかる人が中国語で使っているということになるのだが。

日本語に和語と漢語が存在する以上、アナタがどう言いくるめても、「日本語における漢字は表意文字」にはならないんですよ。

 漢語は広義に和語ですよ。「天地玄黄」がどう読まれたか知っていますか。というか、この言葉の由来知ってる?

「数を数える」ときに「表音文字が機能する」なんて表現は論理破綻してますよ。「ひとつふたつみっつ」も「いちにいさん」も音ですよね。

 ここも変だと思うのだが。「いちにいさん」も音、だから、「表音文字が機能する」ということなんだが。

漢文を日本語で読み下すことが可能だったのは、漢字が表語文字で、日本語のひらがなが表音文字であったからできたことであって、ともに表音文字ラテン語ゲール語でできるわけないじゃありませんか(笑)。

 おや、「表語文字」なんて仕入れてきたね。あはは。
 「漢字が表語文字で、日本語のひらがなが表音文字であったから」ではなく、漢字が読み下せたのはそれが日本という異言語環境では表意文字として機能していることが前提になったということなんです。

それは、支配云々、帝国云々で語る事柄ではなくて、表音文字表語文字かという言語上の問題によって規定される事柄ですよ。

 これが逆なんですよ。まあ、ここはたしかに議論としては脇になるし、そもそも切韻がなぜできたのか、焚書坑儒とはなんだったかという歴史を語る必要があるので、ここは、休戦ね。平和。ピース。

id:finalvent は『音符については斦と書くべきだった』と書いてるのだが、これ撤回するのか?」と前回書いたのですが、撤回するんですか?

 ここがよくわからん。「質」の音価を示すのは、「斤」ではなく、「斦」と書くべきだった、というのはそう。そこはチラシの裏で、しかも文字化けしそうな文字はめんど、とか思った。ただ、山田氏は、類例の漢字の構成からみて、「斤」と「斦」を区別してない。ああ、これは「斤」で見ているんだな、じゃあ、いいかということ。で、いいのか。いいと思ってますよ。で、撤回になるのか。撤回しないことになるのか、よくわからんが。

それと、「シツ・ギン」は「斦」という漢字の音価ではなくて、「斦」という音符の音価ですよ。「斦」という漢字の音価は中古音で「チ」です。

 ここが共時性と通時性で混乱しているところにしか見えないのだが、「質」という漢字の音価指標が「斦」であることと(「質」という漢字が利用されていた時代にね)、「斦」という漢字がある時代に「シツ・ギン」とか「チ」とかの音価を持っていたことは、別ですよ。

その山田さんの考察を id:finalvent はそのまま援用し、自らの主張として、白川静さんの説に反駁したんですよね。なんたって他人に著作を薦めるぐらいに、山田さんの説に心酔してるわけですし(笑)。で、そういうことをしておいて、後から、あれは山田氏の考察ですから、私は関係ありませんと言うのはズルイですなぁ

 なんかどういうこだわりをしているのかわからないけど、山田氏の考察以上の自分の私見なんてないのだが。

本当に矛盾したことを言う人ですね。後付けでどんどん言うことを変えていくんだから、そりゃそうなるでしょうけど。

 うーむ、奇妙な前提からそういう主観が導かれることがあるんだろうな、という以上には、私は理解でけんところです。

たぶん、id:finalvent に理解できないだけだと思います。でも、これ以上、簡単に説明できる事柄じゃないし、わからなければ、それが id:finalvent の限界なのでしょう。

 あ、それはそれでいいですよ。私はバカだと言ってるし、日記はチラシの裏だと思っているし、その前提には、自分の知性なんてミジンコの脳みそくらいだと自覚しているし、限界なんかいろいろ。

ま、論理展開の仕方や言語学の専門用語の理解の仕方を見てたら、どの程度のオツムの方かはわかります。

 ということなんだから、こんなオッサン相手にしなくてよいよ。

ただ漢字についての話をしてるだけなのに、唐突に「『女好き』と書かれているので、だったらそちらに邁進したら」というのは相手が男であれ女であれ失礼には違いないでしょう。これを失礼と思わない感覚だったら、無神経なおじいさん感覚で更にヤバイですね。

 そこがわからん。なので、だから、「無神経なおじいさん感覚で更にヤバイ」という理屈はわかる。

その二点上に書いた通りです。

 で、その対応がわからん。繰り返すと。
 
・ 音価の標識として山田氏は、「斤」と「斦」を区別していない。
・「斤」という漢字と「斦」という漢字が、ある年代・地域で別の音価を持っていたということと、「質」の音価の議論は別です。
 
 この話がどうつながっているのか、わからん。
 ちなみに、山田氏は、齗(gin)→祈(ki)、希(ki)→絺(ti)という音変化の例を挙げている。
 これを見る限り、「斤」=「ギン」が「チ」に変遷するとしか読めないのだが。つまり、「斤」と「斦」を区別していない。
 もちろん、山田説が全然違うというなら、はあ、そうですかで、それはまた別の話。
 

追記
 おお、元気だね。では。
 ⇒「finalvent さんの漢字論」珍説を再び斬る(7) - hΛlの女好き日記(2010-02-07)

↓みんな言ってること同じですよ↓
・言語のルール系
・文法 ← id:finalvent 推薦の訳語、上記「言語のルール系」と同義
・構造態
・システム
・社会で共有されるコード
・諸言語に共通して見出せる性質

 あー、これはあかん。基礎概念もその背景や学説観の差異もめちゃくちゃ。

言語に包含される諸要素相互の関係性から見た言語の側面でしょ。関係性というのは態様であり、それを秩序づけるルールの蓄積でありコードの蓄積ですよ。それだけの話です。

 それが全然違うのだが。「言語に包含される諸要素相互の関係性から見た言語の側面」とか意味不明になっているのだけど、感受できていないのだろうか。「関係性というのは態様であり、それを秩序づけるルールの蓄積でありコードの蓄積」もなんの意味もないジャーゴンの結合でしかないよ。

なぜ、ぶーなんだろう。なんか急に幼児表現になってますね。ちょっと、気色悪いです(汗)。50過ぎておられるんですよね。少し、落ち着いたらいかがでしょう

 ああ、それはそうかもしれない。ただ、そんな感じだったんだよね。なんか、昔、をちょっと思い出してた。

ラングは言語共同体における社会的規約の体系としての言語の側面です。これについて、共同体的、社会的拡がりに注目するなら、それに対置しうるものとして、パロールの個人性に注目し、ラングの個人的実践、個人的言語、個人的で揺らぎのある言語と表現することはけっして間違ってませんよ。

 まあ、そんなふうに理解して、いろいろな「現代思想」ができちゃうのも、言語学からインスパイアされた側面としてあってもいいのかなとは思うけど。「ラングは言語共同体における社会的規約の体系としての言語の側面です」も、まあ広義に間違いとも言えないのだけど、社会的規約として意識されるものではなく、だから「個人的で揺らぎのある言語」という対応ではないのですよ。

パロールという個人の発話行為は言語共同体のシステム(文法でもいいですよ)であるラングに対して、あるときはそこから逸脱し、あるときはそこへ侵犯します。

 ここも、こう理解がしちゃう人がいるのはわかるけど、規約・規範ということではなく、むしろパロールというのはコーパスなんです(こう言うのはちょっと危険なんだけど)。だから、「揺らぐ」とすれば、規範文法がラングに見えるときの記述文法的なものに見える、ということ。しかし、こうした混同が起きないために共時性の概念を加え、変化を通時性の側に回している。まあ、ここも厳密にはドゥルーズなんかも言っているようにWilliam Labovが着手した社会言語学的な共時性の差異というのもないではないけど、いちおうそれは応用言語学の領域に方法論的に区別されるところなんだよ。

言語学の概念じゃなくて、現代思想の概念であります。id:finalventジャック・デリダは読まないみたいですね。

 正確にいうと読まないわけではないけど、なんだこいつというくらいにしか理解していない。というか全然理解できない。彼の現象学理解なんかも基本的に間違っていると思っている。

で、言語のルール、社会的規約の体系としたラングを研究する中で記号論というシステマティックで汎用的な理論が成立するんじゃないですか。

 ぶーとかいうといかんか。そこがどうも根本的に理解されていないようだ。というか、構造主義でいう、というかレヴィストロースなんかのいう「構造」も理解できてないんじゃなかな。ソーシュールにとっては、記号論言語学の基礎付けで、達成とは逆なんですよ。ソーシュールは天才すぎて記号論の豊かさみたいのをほったらかしてくれたから、後の学者の残飯にもなったのだけど。そのわりにソーシュールは晩年アナグラムみたいな変な世界に閉じこもってしまったけど。

一般的な認識として、「記号論はラングを対象にしている」でいいのですよ。

 ここで笑っちゃいけないのですよね。

えーと。「やるきになればパロールでも成立するかもしれない」と自分でも書いてるぐらいに、ラングを対象にしない記号論なんてありえない、それが一般的な理解であることを id:finalvent は認めているのに、再び、「だから、それが全然違う」にどうしてなるのだろう。

 これを詭弁とか言っちゃいけないのですよね。finalventは詭弁だけど、finalventが詭弁というのはダメよの社会的規約なんですよね。はいはい。

つまり「パロールを対象にした記号論」なんて、id:finalvent だけしか言ってませんよ。他に言ってる人がいたら、その典拠を示してください。

 その言明の典拠というのは違うけど。これが実質。

cover
言語と行為: J.L.オースティン, 坂本 百大

ランガージュつまり辞書で索ける言語(人間の社会集団における相互伝達の手段としての本来音声による記号。文字によっても表現される。)、言語学的に厳密に言えば言語活動が、そのまんまに存在してる私たちの生活環境があります。そこから、それを対象に研究する言語学を始めるにあたって、それら言語活動=ランガージュと峻別され、新たな対象として措定されるのがラングですよ

 なんかすごいことになっているな。「辞書で索ける言語」はたぶんコードのことを指しているのだろうけど、こう表現すると規範文法にしかうけとれないよ。「言語学的に厳密に言えば言語活動が、そのまんまに存在してる私たちの生活環境」も言いたいことわからないではないけど、それはSapir-Whorf hypothesisの類になる。

id:finalvent のその特殊なソシュール理解はどこから捻り出したんだろう。言語学とか現代思想は、能力のない人が独学でやっても、自己満足の言葉遊びに終始するだけで虚しいと思うんですけど、虚しいと思う叡智が欠けてるから、こういう言葉遊びで虚勢を張ることに悦びを見い出してしまうんでしょうなぁ。ふぅ。

 ふぅ。
 いろいろぐぐって検索件数とか出しているところは、ちょっと、カワユス。

誤解しちゃいけないのは最初から訓読が確立してたわけではないということ。中国語を日本語化する過程で訓読の技術が生まれ、それは日本語をも変えたのだと解すべきです。それが文化の伝播というもんでしょうし。

 ここは理屈の取り方かもしれないけど、訓読が確立ときに漢語という日本語になったのね。だからそれ以前とかは日本人だけど中国語を使っていたというだけのことで、異言語の意識はない。

言葉遊びはいいですよ。例外的な事項や一般的でない解釈を持ち出して、一般的な事項や解釈を否定するのは詭弁のイロハでしたっけ。i

 「天地玄黄」が「例外的な事項や一般的でない解釈」ですよね。はあと。

「天地玄黄」は千字文の最初の句ですね。その読みを言いたいのだろうか。由来は『易経』坤卦文言伝の中の一節にあるんでしょう。そんなことをここで尋いてもあまり意味があると思えませんが。

 どうも「文選読み」を知らないご様子。

数を数える行為のどこに文字が介在しているのですか? 文字が介在してなければ「表音文字が機能する」ことはできないでしょう。

 このあたりは、どう話がねじれているのかわからない。数を数える行為のどこに文字は介在していないと思うが、とかいうとまた矛盾だ詭弁だとかになるのでしょ。

表語文字という言葉はこの一連のエントリの一番最初のエントリで既に使ってます(参照)。以降、指摘の箇所まで通算で4回、私のエントリの中に登場しているので、前回のエントリで「仕入れ」たわけではないですよ。

 ここは了解。「ポゴ・レリチ」みたいにわかりやすい。

「(漢字が)日本という異言語環境では表意文字として機能」するには、表語文字である漢字と表音文字であるひらがながなければ無理ですよ。

 これは単純な間違いだと思うよ。少し考えるとわかると思うから指摘しないけど。

逆の意味をちゃんと説明できますか?

 いやできてない。変なスキーマを出してきているなと思っている。

どうも音符や形声文字や六書の概念を用いて漢字を解字することを、私流のやり方と誤解されてるよう気がするんですが、

 いや、普通に優等生さんなんだなと思うし、そういう優等生さんが学者さんになるのかなとは思っている。ただ、ソーシュールとか山田の透徹性みたいのは理解されないんだろうなとは思うけど、たしかにそういうふうにいうとトンデモに聞こえるし、山田説はたぶん学会的には珍説の類だから、それを指示するfinalventは珍説オジサンというのはわからないではないよ。

音符である「斤」と「斦」を区別してないということですね。後述で、齗(gin)→祈(ki)、希(ki)→絺(ti)という例が挙げらているのを見ました。手元の辞典と照合して、音符「斤」の音が「キン⇒ギン、キ」に変化するパターンを知りました。

 そう。
 最初からそういうことで話しているんだけど。

ただ、そこには「シツ」の例がないこと、斦には「キ」の例がないことなどから、斤と斦を同じ音符として扱うことには、まだ疑問が残ります。「質」の音符も、山田氏は「斤」だと書いているのですか? 「質」の音符は「斤」だというのは id:finalvent の判断ではないのですか?

 ああ、この疑問はよくわかるし、そこが疑問だという指摘は「ポゴ・レリチ」級にわかりやすい。ので、ていねいに答えると。
 その疑問は当然だということ。そこはそうだと思うよ。
 「「質」の音符も、山田氏は「斤」だと書いているのですか? 」なんだけど、厳密には書いてない。ので、ほうらfinalventの判断で間違っている、というなら、40%くらい留保していいところ。で、そこから話なんだけど、にもかかわらず、「質」の「斦」音標識の音価について「齗(gin)→祈(ki)、希(ki)→絺(ti)」としているところかは、妥当に「質」の音標識は「斤」だと判断できると思う。
 まあ、「質」の音標識は「斦」だというのはそうだけど、それを山田氏は、「斤」の音標識として理解していると、例解から判断できるということ。というか、普通にそう見えるんで、かったるーと私なんかした。

>「斤」という漢字と「斦」という漢字が、ある年代・地域で別の音価を持っていた
>ということと、「質」の音価の議論は別です。
id:finalvent が「別」と書いてるその議論は「同じ」ですよ。質の音価を決定するのは質の音符である斦なのですから、両方の話はリンクしているのですよ。

 まあ、くだくだ議論してたまにはgdgdもいいかな、少し言語学の基本でも説明するかなとか思っていただけなんだけど、この指摘はきちんと受け止めておくよ。そういう疑問はあると思う。
 つまり、音標識とは漢字であるという主張ね。だから、「斤」という漢字と「斦」という漢字の差異は考慮されなくてはならないという主張。
 で、私というか山田氏説を受け入れているだけなんだけど、そこは曖昧に、音標識として見ている。というのは、音標識がそのまま直接意味を担っているから。
 まあ、だからソーシュールとかくだくだ持ち出したわけで、そこらのぼんくら現代思想好きをソーカル的批判をしたいというわけではないよ。

おおやっとマトモな典拠提示がきた。調べましたけど、「齗」も「祈」も音符は「斤」になってました。で、音符の欄にはそれぞれ「キン<ギン>」、「キン<キ>」とあるんですけど「<>」のカッコに挟まれてないほうが。その音符の固有の音、元々の音ということです。ということは、音符の「斤 キン」の音が、それぞれ、「キン⇒ギン」、「キン⇒キ」に変化したということです。これは音符の音が固有音から変化したという話。id:finalvent が山田氏の著作から写しとった上の変化では、音符「斤」の音がオリジナルの「キン」から変化したあとの音が、それぞれの漢字のアルファベットとして付されているということですね。
「齗(gin)→祈(ki)」という書き方は、本当にこのままの書き方で山田氏の著作に書かれてたのですかね。もしも、このままの形で書かれていたのなら、矢印が示すのは漢字の音の変化なのかもしれません。前後の文脈があったら、もう少しわかることがあるかもしれません。

 まあ、そう修辞的に大仰に書くこともないと思うけど、というか、私は最初からその前提で話していたのだけど。なので、六書とかわかってないレベルの批判がくだくだ続いて、まいった。

ただ、これを見て、「斤」=「ギン」が「チ」に変遷するというのは無理があると思いますよ。

 まあ、そういう異論があるのは理解できるよ、と、さっきも書いたけどね。

「チ」の音を持つ漢字として「直」を持ってきたのはどういう理由なんでしょう。

 話が少しそれるけど、その疑問も共有できる。山田氏の該当書籍を読むとわかるけど、朱駿声の「説文通訓定声」研究の応用として出てくる。典拠はそこにあるし、当時、漢字の世界がわかったように思えた。
 まあ、それを主要に研究しないで無駄に年を取ってしまったボケ爺だぜfinalventというのは、責められてしかたないなとか思う。まあ、いろいろ青春があったり、書籍を捨てて沖縄暮らししたりとか人生いろいろあったんですよどうでもいいですからじじい。

なんですよ。これ、一応山田さんの著作のアフィは貼ってあるけど、文中には山田説であるとのことわりはなにもないですよね。ちゃんと自分の主張として書いている。自分の主張の中で「切韻音系で漢字の音価の祖型を考察」している。これを山田さんの説だから、自分は関係ないというのは卑怯じゃないかという話です。

 それは30%くらい留保する。というのは、この手の話、今回が初めてじゃないし、意図としては、白川静撲滅運動(冗談ですよ)のいっかんで機械的にまいどやってたくらいなこと。ただ、極東ブログのほうにはこの背景についてそれなりに書いてきたので、ええかくらいな感じ。基本的に、なぜfinalventってやつはこんな変なことを考えるんだろうというのは極東ブログのほうに多少ていねいに累積しています。

 
追記
 論点としてはだいたい終わっていて、あとは修辞の空回りに見える。
 ⇒「finalvent さんの漢字論」珍説を再び斬る(8) - hΛlの女好き日記(2010-02-08)
 で、重要なのは、論点としてという意味だけど、一点だけ。

↓の図式は id:finalvent が山田氏の著作を読んで、それを要約して、図式化したということだと思うのですが

>>齗(gin)→祈(ki)、希(ki)→絺(ti)

 「思うのですが」の上の議論はカードキャッスルなんで、原典を参照のこと。
 という一点に尽きていて、憶測からの論点には触れないほうがいいとは思うのだけど。

音符「斤」の音がオリジナルでは「キン」であったのが「ギン・キ」に変化したというのは正しいです。辞典で確認できますから。しかし、そのことと「ギン」の音を持つ漢字(例:齗)が「キ」の音を持つ漢字(例:祈)に変化したという話は別です。ここは id:finalvent が山田氏の著作を誤読してるのではないかと思います。山田氏は、音符「斤」の音が「キン」から「ギン」や「キ」に変化したという文脈でこれらを書いてるのではないですか? そうであるのなら、それは普通の穏当な理解であり、事実なのだからわかるのです。

 「山田氏の著作を誤読してるのではないかと思います」はまず原典を参照のこと。

>H: 「チ」の音を持つ漢字として「直」を持ってきたのはどういう理由なんでしょう。
これに直接の答はなかったわけですが、つまり、「チ」の音を持つ漢字として「直」を持ってきたのは id:finalvent の思いつきだったと解釈してよいのですね。

 いや、原典を参照してごらん。

>「ギン」の音を持つ漢字は「チ」の音を持つ漢字に変化する。
という認識を基に、音符の概念を用いず、「質」の意味をパズル感覚で自由に解いたと、そういうことですね。

 いや、原典を参照してごらん。

それと、上の図式から、「質」の音符は「斤」だと判断できるとしてますが、漢字の音符がなんであるかは辞典の内容が全て頭に入ってる人でもない限り、確実にはわからないことです。もちろん「斤」についての知識があれば「祈、折、近」などの音符が「斤」であるという類推はできますが、「質」の字はその音符が「斤」だと思ったら、実は「斦」だったというように、最終的には多くの研究者の研究成果の蓄積である漢和辞典にあたらなければわからないことです。

 ここは、嫌がられるようだけど、山田氏の論考への批判としてはなりたつかもしれないけど、そこからid:finalventを取り出して、そこだけ批判するというのは、無理。
 あと、ただ、同情しちゃうのは、その無理だというのを万一ご理解された後、「最終的には多くの研究者の研究成果の蓄積である漢和辞典にあたらなければわからないことです」もかなり変容せざるをえない点。
 前回そこの示唆を込めて、朱駿声の「説文通訓定声」に言及したのだけど、読み落としているでしょ。というか、山田氏や私が「説文通訓定声」を重視しているという意味を了解しようともしない。まあ、id:finalvent はバカだうそつきだという公理系から修辞を産出してしまっているからだと思う。でも、バカの議論というものにも0.5%くらいの真理が潜んでいるものだよ。

その図式に「質」の字が入ってたのなら、山田氏がそう理解していたとは言えるのですが、ここには「質」の字はないので、そうしたことを類推できません。「折、近」等の文字であれば、その音符が「斤」であると類推できますが「質」の音符は”二斤”なので、最終的には漢字学者の研究成果の集大成である辞典にあたらなければわからないことなのです。「普通にそう見えるんで、かったるー」という気持ちはわかります。が、これが落し穴になることもまたよくあります。

 これも原典を参照してごらんなんだけど、厳密にいえばそうだけど、妥当な推論としてなりたつと思う。そしてそれ以上は、山田氏の議論だと思う。しかし、その場合、議論の立脚点は「説文通訓定声」になるんですよ。
 
 さて、あとはどうしようかな。まあ、ぷちぷちと行きますか。

数式じゃあるまいし、ラングの定義が日本語の同じ単語で説明されると思ってるおめでたい人には何を言ってもしょうがないのかもしれません。「言語のルール」と「文法」は違うと言う人なんですから(笑)

 (笑)がカワユイなあ。しいていえば、ラングは数式ですよ。これはGeneral Semioticsの時点でそう。この認識はヒルベルト構造主義なんかだとさらに徹底されるんだけど。というか、ソーシュールの偉大さは「意味」を言語学から排除したことにある。このことがわかると、ほんと、驚くもんだと思うけど。そしてこの驚きがないとラカンとか理解できないと思うけど。
 「言語のルール」と「文法」は違うだけど、ラングはまあざっくりいえば文法なんだけど、ただ、その場合、ラングにルールが含まれる。そして言語のルールという場合にランガージュを指すならそれは重層的に存在する。そしてそのなかで、言語学の課題とはなんだろうという明晰さから近代言語学が始まったんだけど。

×について。要素間の関係性を規定するのがコードでありルールなのだから、要素間の関係性を研究するということは当然コードやルールを研究することも意味しますよ。社会的規約の体系というのはルール系であり文法の蓄積なのだから、両者の間には隔たりはありません。というよりも、これは、言語学を語る以前の国語力の問題でしょう。

 そう国語力の問題。で、間違っているのは「両者の間には隔たりはありません」のほうなんだけど。人間は動物だから動物の原理性を追求すれば人間は理解できる、みたいな論理ミス。
 「社会的規約の体系というのはルール系であり文法の蓄積なのだから」がナンセンスな言明になっていることが感受されていないごようす。

ジャーゴンの意味をわかってませんね。それぞれの言葉の意味は実に単純で明快です。id:finalvent が正しく言うべきは「私には理解できません」でしょう。

 それぞれの言葉の意味は単純明快ですか。これですよね。

↓みんな言ってること同じですよ↓
・言語のルール系
・文法 ← id:finalvent 推薦の訳語、上記「言語のルール系」と同義
・構造態
・システム
・社会で共有されるコード
・諸言語に共通して見出せる性質

 ありえないけどなあ。システムと構造の差異もわかってないとしか見えないけど。たぶん、機能ということがわかってないのだろうと思う。そしてそれは、ソーシュールが「価値」と呼ぶものをおそらく根底から理解してないんだろうと思う。
 まあ、今ふと気がつくんだけど、このあたりのソーシュールの議論は意外とスコラ哲学的な背景もあるのかもしれないな。

どうせ読んでないんでしょうけど(笑)、「(デリダ)の現象学理解なんかも基本的に間違っていると思っている」と言い放つ人に、なにをどう説明しても無理のような気がします。自分がこうと思い込んだら、誰が何を言おうと耳を貸さないのでしょう。

 ナカーマ!

「というか」の多様って、いい歳をした人がやるもんじゃないと思いますが、このへんは感受性の問題なんでしょうか。「なんかのいう」というのも。

 「というか」の多様ってなんだろ? various expressions of toyouka。わからん。よもや「ポゴ・レリチ」問題でもないし、嘘つき事件に発展するわけもないでしょうが。
 「いい歳をした人が」というところは、ところで、こういう表現は、差別にならんわけな?
 人がどのような言語表現をするかは、内容からは、完全に分離できるわけでもないけど、捨象可能だとしか思えない。まして、「いい歳」については、エクリチュール上の虚構でもあるんだけど。

笑ってもいいですけど、笑うことで晒されるのは id:finalvent の無知ですよ。先にも書きましたけど、シーニュ/シニフィアン/シニフィエという記号学の概念は、ソシュールがラングを研究対象と措定し、それを考察する過程で生まれた概念です。これを笑うアナタはソシュールの理論の基礎の基礎を理解できてないのでしょうね。それどころか、こういう過程を無視して、シーニュ/シニフィアン/シニフィエという記号学は「やるきになればパロールでも成立するかもしれない」ですか(呆)。「かもしれない」ってなんですか。つまり、「(記号論は)ラングで成立する」というのが前提になってるわけじゃないですか、アナタの認識でも。

 私が哲学の祖から学んだことは、自分が無知であるということなんだ。で、「記号学の概念は、ソシュールがラングを研究対象と措定し、それを考察する過程で生まれた概念」はそれであっているんだけど、そういうと私が矛盾とかになるわけだよね。ただ、正確にいえば、ラングを研究対象とするための前提的方法論だったということ。
 「かもしれない」は、これもなんども言っているけど、言語学の範疇に入らないということ。

>H: 繰り返すが、記号論シーニュ/シニフィエ/シニフィアンはラングの中でしか語れない、成立しない。
>F: だから、それが全然違うわけですよ。
 
これほどハッキリした詭弁はありませんよ。まぁ、悪意にとらなければ純粋に id:finalvent の思考の混乱なのかもしれないが。

 これね、正確にいうと、こうなんですよ。「シーニュ/シニフィエ/シニフィアン記号論のなかで語られ、記号論の上にラングの議論が成り立つ」ということ。ラカンとか読んだことないのかな。記号論はラングだけの議論ではないよ。

彼の言う「発話行為」というのはラングと峻別されたパロールではないですよ。「パロールを対象にした記号論」どこにあるんでしょう?

 オースティンの発話行為はまさにパロールなんだが。そしてパロールの意味を問う、というのがここでの記号論なんだが。

> 「辞書で索ける言語」はたぶんコードのことを指している
 
脊髄反射で反応しないで、ちゃんと文章読みましょうよ。
 
辞書で索ける言語(人間の社会集団における相互伝達の手段としての本来音声による記号。文字によっても表現される。)
と書いてるんだからランガージュでしょ。

 つ・ま・り、「辞書で索ける言語」が「ランガージュ」なんですか。すまん、圧倒されて返答もでけん。

千字文を声に出して読むときは文選読みで読むのですよ。知らなかったのなら、このさい覚えておきましょう。

 正確にいうとちょっと違うんですが、まあ、このあたりの時代の日本人の異言語経験の話は通じてなさげ。というか、これは停戦領域か。ピース。

> 数を数える行為のどこに文字は介在していないと思うが
 
ということは、数を数える場面では「表音文字が機能」なんてことはないのですよね。とすると以下のアナタの謂いは間違いですね。

 どういうロジックなのかわからん。

>H: 「(漢字が)日本という異言語環境では表意文字として機能」するには、表語文字である漢字と表音文字であるひらがながなければ無理ですよ。
>F: これは単純な間違いだと思うよ。少し考えるとわかると思うから指摘しないけど。

いやいや、間違いでなくて真です。考えるまでもなく真です。これを否定するにはアナタの相当な努力が必要でしょう。努力しても無駄でしょうけど(笑)

 これはそう、努力しても無駄っぽい。

漢字はそうした普遍語の一つとして存在する。

 停戦域だけど、ここは論点に関わる部分なので、軽く言及しておくと、「漢字」は言語を表記する体系であって、言語ではないし、まして普遍語でもないですよ。この「普遍語」というタームの用法もそうとうにおかしいけど、できるだけ意を汲んでおくとして。

現地語の読みを与えて漢文(中国語)を訓読してるのは日本だけですから。ベトナムにしても韓国にしても漢字の音をそのまま当てて、現地の別の言葉で「訓読」することはしてません。つまり id:finalvent の言う「表意文字」にはなってません。id:finalvent の言う「表意文字」として機能することが「異民族支配のためのエクリチュール・システム」であるのなら、ベトナム、朝鮮では異民族支配が行われなくて、日本でだけ行われたということになります。

 ここが面白いところなんだけど、まあ、そう言いたくなる気持ちはわかる。戦線を広げたくないんで、ここの言及は控えておくけど、関心がある人がいるなら、以下を参照のこと。

cover
中国意外史 (Shinshokan History Book Series): 岡田 英弘
 まあ、岡田説はまたトンデモになるんでしょうが。
 
追記
 「あーはっはっはっは。失礼」の尊いお言葉聞けたように、論点的には終わりというか、原典参照を待つほうがよさそう。そのあと、「往生際が悪い」みたいな修辞は私はしませんから、お気兼ねなく。参照結果をとりあえず待ってます♪。
 ⇒「finalvent さんの漢字論」珍説を再び斬る(9) - hΛlの女好き日記(2010-02-09)
 
 以下は、散発的に、レッツ・ナカーマ!

ちょっと宜しいでしょうか。なにか勘違いしてませんか。アナタのほうが私より大幅に年齢が上であることは薄々感じていますが、自分のほうが年寄りだからといって、見ず知らずの相手に「〜してごらん」はないでしょう。そういうぞんざいな物言いは失礼ですよ。

 「あーはっはっはっは。失礼」

まあ年齢や性別を盾に自分を上にして有利な立ち位置を確保したいということなのでしょうが、イマドキのやり方じゃないですね。少なくともスマートな男性は表面上は性別や年齢で相手に対する態度を変えないもんですけどね。どこの田舎紳士かと。

 いやそんなこと考えてもいないが。
 「少なくともスマートな男性は表面上は性別や年齢で相手に対する態度を変えない」っていう表現に昭和な香りが。うーん、マンダム。

[d:finalvent が「チ」の元の音の意味は「直」とした理由がわからなくて狐につままれた気分です。

 山田氏の本を典拠にしているよ。

>ちなみに、山田氏は、齗(gin)→祈(ki)、希(ki)→絺(ti)という音変化の例を挙げている。これを見る限り、「斤」=「ギン」が「チ」に変遷するとしか読めないのだが。つまり、「斤」と「斦」を区別していない。
 これは山田氏が著書の中に書いてることではなくて、id:finalvent 独自の考察と判断です。

 いや、「齗(gin)→祈(ki)、希(ki)→絺(ti)」は、そのままそう書いているだけ。
 そして、そこから私は、「斤」と「斦」を区別していないなと判断した。で、それはこの例を見てもわかるように、それほど奇異な判断ではないでしょということ。
 たぶん、伝聞と判断の差異が区別できてないんじゃないかな。「文脈を読むのが下手なようですね。こういうところを見てると、どの程度のオツムの人なのかというのがわかるんですよ」なんて修辞は返さないけどね。

私はそのあたりの id:finalvent 独自の考察と判断を俎上に載せているのですよ。

 そんなのないよ。なんか批判げにバッシングされているのは、ドンキホーテの水車のようなもん。

あのですね「説文通訓定声」は清代に著された「説文解字」の解説書ですよ。従来の解説書と違って目新しいことと言えば、音符の分類によって漢字を配列し、古音を中心に註を加えたということです。つまり、従来、意符によって漢字の配列が行われてたことに比べたら、音符の意味が格段に重要視されることになったという点で画期的な書なのです。その書を読んだというアナタが音符の意味を軽視するのですか?

 いや、軽視してないのだが、それどころか、尊重して書いているのだが。

清代の説文の解説書ということは、現代の漢字研究者の間では非常に古典的で重要なものなのですよ。あるいは、マニアックな漢字好きの間でも有名でしょうね。それが証拠に、私の手元の漢和中辞典や大漢和辞典などある程度の大きさの漢和辞典の親字は康熙字典・中華大字典・説文解字注・説文通訓定声・宋元以来俗字譜等から収集され、その研究成果の上に成り立っています。笑。「説文通訓定声」によって漢和辞典の意味が変容するとか、よくもそういうたわけたことが言えましたね。

 言えるよ。山田氏の本の序説を読んでご覧。

ちなみに、手元にある赤塚忠・阿部吉雄編「漢和中辞典」(旺文社)の編集委員は次の方々です。
 
>伊東倫厚、遠藤哲夫、小和田顕、斉藤喜代子、妹尾勇、西岡市祐、沼尻正隆、林茂夫、山田勝美(五十音順)
山田氏も編集委員として加わってますよ。

 ここで失笑すると怒られるというルールなんですよね、ラジャー。では、加藤常賢と山田勝美による「角川当用漢字字源辞典」と先の山田氏の著作と比べてみると面白いですよ。共著と自著とどう違うかわかりますよ。

「質」の字について山田氏が言及してないのに、上記の図式から勝手に「斤」を音符と思い込んで(←「普通にそう見えるんで、かったるー」)話をしたのは id:finalvent 自身に他なりません。これは「説文通訓定声」とは全く関係ない話です。しかし、よくもまあ話を全く関係のないものに結びつけて、あさっての方角にほっぽり投げることができるもんだと呆れます。オースティンの話も同じです。真面目に物事を考える人の態度じゃないですね。ま、これも詭弁のイロハですか。

 通じてないなということはよくわかった。「通じてない」入力が「詭弁のイロハ」として返却されることもよくわかった。これで議論になるんかいなはループ中。タイムアウトでtry-catchかな。

落ち着いて文章を読みましょうよ。数式は「ラングの定義」でしょ。ラング自身ではなくて「ラングの定義」。重要なことなので二回書きました。

 ちがうよ。より正確にいうなら、「ラングの表現」だよ。ラングとは何かと問われれば、数式でも表現できるということ。これは、Zellig Sabbettai Harrisがより具体化して、そのお弟子のチョムスキーに引き継がれた。

まあワザとやってるんなら話は別ですが(笑)←この字気に入っていただけてるんですかね。

 カワユイなとは思っているけど、もう書いたりしないから、ご安心あれ。

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ぶん‐ぽう〔‐パフ〕【文法】(大辞泉)
1 文章を構成するきまりや規範。また、文章を書く上でのきまりや書き方。
2 言語を構成する諸要素の間にみられる法則性。また、それを分析・記述する研究。ふつう、単語・文節・文などの言語単位について説かれるが、さらに語構成・文連接・文章構成などの問題についても扱われることがある。

        • -

法則 【英辞郎
law(科学の)
principle
rule

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 往生際が悪すぎ。

 これで往生していたら、言語学できないんだけど。というか、これらの辞書規定は言語学からの市民社会による理解の派生でしかない。

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そして言語のルールという場合にランガージュを指すならそれは重層的に存在する。
via: 日経春秋 春秋(2/1) - finalventの日記

        • -

あーはっはっはっは。失礼、煽るつもりはないんだけど、これはあんまりです。ランガージュとラングはソシュールによって峻別されたのですよ。そして、「言語のルール」はラングを研究対象にして、そこから抽出されたのですよ。いやこれはあんまりだ。

 「「言語のルール」はラングを研究対象にして、そこから抽出された」なんて言ったか? うーむ、「これはあんまりだ」という感じを私も持つが。
 「言語のルール」はラングを含むけど、その総体ではない。そして、それらは重層的に存在するもの。

人間の研究と動物学の研究は重なるところも多いでしょうが、人間の研究は動物学の研究では言い尽くせないということは明らかです。なぜなら比較の対象になる人間と動物の包含関係は下記のようだからです。

 このあたり、基本が通じてなげ。

ああ、失礼。「多用」の変換ミスです。訂正しておきました。いやしかし、こういうの挙げつらわれちゃうのか。id:finalvent の誤字・脱字・変な日本語文法を一々指摘してったら大変なことになりますけどね。
 

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「ポゴ・レリチ」問題でもないし、嘘つき事件に発展するわけもないでしょうが。
via: 日経春秋 春秋(2/1) - finalventの日記

        • -

 
「ポゴ・レリチ」じゃなくて「ポゴ・レリーチ」です(笑)。随分とこれに拘ってるように見受けられますが、なにかあるのでしょうか?

 なにかあるのか?と。 うーむ、まったく、通じてなげ。

「差別」? 「いい大人が」でもいいですよ。「歳」でカチンときちゃったのかな。「子曰、吾十有五而志於学。三十而立。四十而不惑。五十而知天命。六十而耳順。七十而 従心所欲、不踰矩。」って言ってね、それぞれの年齢には、それぞれの年齢なりのもんがあるという考え方があるんですよ。

 そういう考え方があるのは知ってる。私は逸脱している。で、なにか問題でも?

あーはっはっはっは。失礼。えーと即ち、ラングを研究対象とするためには前提として記号論が必要、ということですか。即ち、記号論がなくてはラングを研究対象とすることができない、ということですか。あーはっはっはっは。そもそも「前提的方法論」っていうのが意味不明ですね。

 「記号論がなくてはラングを研究対象とすることができない」はそのとおりだが。
 「前提的方法論」というのは、ラング研究をするには、記号論が前提的な方法論になるということだが。

そもそも、記号論だのパロールだのという言語学の専門用語を使った言葉が言語学の範疇の言説ではないと言うんでしょうか。大丈夫?

 大丈夫。実際そうだし。学問というのは専門用語を使えば入るっていうもんじゃないことはソーカルとかで笑える実例あり。

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>H: 繰り返すが、記号論シーニュ/シニフィエ/シニフィアンはラングの中でしか語れない、成立しない。
>F: だから、それが全然違うわけですよ。
H: これほどハッキリした詭弁はありませんよ。まぁ、悪意にとらなければ純粋に id:finalvent の思考の混乱なのかもしれないが。
 
F: これね、正確にいうと、こうなんですよ。「シーニュ/シニフィエ/シニフィアン記号論のなかで語られ、記号論の上にラングの議論が成り立つ」ということ。ラカンとか読んだことないのかな。記号論はラングだけの議論ではないよ。

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ぷっ。失礼。これって、ソシュール理論の話をしてたんじゃなかったんですか。言語学一般の話をしてたんじゃありませんよね。オラなんかものすごい詭弁を見たど。

 ソーシュールの理論は、記号論と言語論があって、記号論については、現代思想的な応用がきくよということ。なにか詭弁?

オースティンは言語の研究対象をラングに措定して、それと峻別されたパロールを「発話行為」として研究したのですか? 違いますね。だって、オースティンはソシュール学派でもなんでもないのですから。ソシュールパロールというのはランガージュと峻別されたラングから派生したものですよ。「発話行為」の訳語に囚われて、ソシュールパロールとオースティンの「発話行為」を一緒に考えたのなら笑止です。その概念が出てくる過程が全く違うのに。

 オースティンはソシュール学派ではないけど、パロールの研究をしたと理解できるということだよ。

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つ・ま・り、「辞書で索ける言語」が「ランガージュ」なんですか。すまん、圧倒されて返答もでけん。
via: 日経春秋 春秋(2/1) - finalventの日記

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以下、辞書で索ける「言語」です。
(コピペ中略)
「人間の言葉の総体」と「音声または文字を手段として、人の思想・感情・意志を表現・伝達し、また理解する行為。またその記号体系。」とで何か違いますか? ラングとパロールが峻別される前の人間の言語活動がランガージュなのですから人間の言語活動一般を指す辞書的な「言語」と同義でしょうに。

 「辞書で引ける「言語」」は、「人間の言語活動一般を指す辞書的な「言語」と同義」という意味ね。「言語」というものが辞書引けるもんと理解しているかと思った。まあ、それなら社会通念としてそうはずれてない。

頑固な小学生相手に教えてるみたい。

 あ、それはよいイメージです。そんなもん、俺。

質問に答えて、正解を与えたのに「このあたりの時代の日本人の異言語経験の話は通じてなさげ」とはこれ如何に。とにかくなんでもいいからディスりたいんでしょうねぇ。アナタの社説ディスりと手法は全く一緒です。やれやれ。

 「質問に答えて、正解を与えた」命題が正しいなら、ほんと、やれやれなんでしょうね。
 そして、そのことに対する対話者の同意プロセスは不要なんだから、これは、すてきな、完璧な世界ですよね。

 
追記
 トラバもろた。お仕事大変そうだね。体を壊さないように。
 ⇒「finalvent さんの漢字論」珍説を再び斬る(10) - hΛlの女好き日記(2010-02-10)
 特に論点も進展もないみたいなんだけど、ちょっと補足してもいいかなということがあるので、少しばかり。
 重要なことを最初に。

山田氏の「漢字字源辞典」が使ってる発音がどの時代のものか尋いたときにも「本を読め」と言って、結局、そのあと、どの時代のものか当の本人がわかってなかったことがバレたように、「チ」の元の音の意味は「直」なんてバカな論理の根拠など「漢字字源辞典」には書いてないのでしょう。

 いや、書いてあるんだよ。だから原典参照のことと言っているだけですよ。
 なんか追記で、はてなが暴走してしまったみたい。続きは⇒<日経春秋 春秋(2/1) その2 - finalventの日記