シンクロニシティについてちょこっと

 このところシンクロニシティについて考えることがあり、なんとなくメモ。
 ウィキペディアはれいによって疑似科学撲滅運動の対象のようになっているが、歯切れが悪いというか、この問題の難所がよく理解されていない。それ以前にパウリがよく考察されていないふうもあるが。
 ⇒シンクロニシティ - Wikipedia
 この問題は、れいのブラックスワンにも関連するが。
 確率的に有り得ないような事象が発生することで、コンテクストが変わってしまうということがある。
 そうとらえたとき、問題は、またしても「確率」にある。
 科学は、確率が出てきたとき、いつも奇妙な陰影を持つ。
 「明日雨が降る確率は60%」という命題がどんな意味が持つか、たぶん、哲学的には分かっていない。
 日常的にはわかっている。過去の事例を考えてみると、この状況では、そうなる確率が60%「だった」ということ。つまり、これは過去への観察だ。
 ところが先の命題は未来に投げられている。
 このあたりはそれほどアポリアでもなく、ようするに、科学とは「再現可能」でなくてはならないし、いわゆる反証可能性というのは、反論しうる、ではなく、論理の是非を実験によって付けることが可能であるということだ。当然、時間の再現性が含まれており、つまり、それは、レーベンズヴェルトの時間ではない。
 この確率の奇妙な振る舞いは、おそらく量子力学の不可解さと同じで、経路積分の似たようなものだ。
 そして、それは、実験系では、正しい。だから正しいとなるのだが、ここで一個の量子についてはなにも言及できない。
 トンデモ科学を言うようだけど、我々の人生というのは、実は、私という一個の人生という観察者を持っていて、実は、なんにも未来がわからない。人はすべて死ぬ、ソクラテスは人である、ソクラテスは死ぬ、はただの冗談でしかない。時間は含まれていないし、そもそも人が定義で可能であったのは、ソクラテスインスタンス経路積分のようなものだからだ。
 話を戻して。
 シンクロニシティとは、ようするにそれが意味というかコンテクストに浮上するから意味をもつわけで、おそらく事象の多様性には、観察者なくしてはなんの意味もない。おそらく、仏教で言う無というのはあるいは雑駁に空というものは、そういうことなのだろうと思う。つまり、べたな存在論ではなく、一種の名辞論なのだろう。人が存在するのは、人が意味了解可能だからということであり、その了解における意識そのものが名辞の行為と同一であるということだろう。たぶん、道元はそう見ている。
 ブラックスワンのような問題は、だから、コンテクストが予定されているような意味了解可能な地点で発生することがあり、それは、結局は確率事象ではあるのだろう。
 ここでやっかいなのは、すべての知覚は現在であり、認識は過去という物語と現在の知覚によることだ。こういうといいかもしれない。ブラックスワンがやってくることはない。確率的にほぼゼロだ。すべてのブラックスワンは過去の物語だ。そして過去が物語れること自体、確率を無視しているというふう文脈を再構成するしかない。つまり、それなくして我々はありえないという現在の存在がそれに依拠している限り、確率は存在しない。
 そんなアホな、というところだが、生の時間はそうした構造を持つし、そもそも過去によって確率を排除したような意味論から成立してしまう。
 その意味で。
 シンクロニシティとは、既知なる未来へというか、文脈の変更への意志なのだろう。
 というか、およそ意志とはそういうものでしかないのかもしれない。
 ややオカルトがかるが、世界の意味を変えたとき、シンクロニシティが発生する(了解する)。
 実際の実経験において、やっかいなのは、しかし、グレースワンとでもいうべきものか。
 卑近な例で。ある失恋があるとする。
 その恋なくしては生きることもできなかったのに失恋してしまった。という意識体はそれを意味化せざるをえない。「私」は失恋を包括して存在するし、そこで微妙な肯定がなされる。
 そして、たぶん、こうした包括は、言い訳というよりも、そのように私がなお未来に生きるという意志の意味を表現しているのだろう。
 やや飛躍するが、過去から意味を汲み取ることができたとき、世界が変わり、シンクロニシティが現れ、気が付くとブラックスワンがすべてを焼き滅ぼしているのだろう。
 ここまでいうとさすがにオカルトだが、ごく単純に、過去を反省すれば新しい明日がやってくるというふうに言ってもいいかもしれない。
 たぶん、問題は、シンクロニシティの了解にある。
 それを、シンクロニシティとして了解することに抵抗する今の自分という意識が、この世界そのものだからだろう。
 おそらく、その抵抗を打ち破るのは、意識の外部なのだろう。だから、まさに、シンクロニシティは、ええええっと我々を驚愕させるか、嘘でしょ、考えすぎでしょ、私、気が狂っているでしょ、というふうに到来するものだろう。
 まあ、ここで、意識の外部を無意識とすれば、またもユング=パウリはよく考察されていなということになるのか。
 
追記
 ⇒はてなブックマーク - シンクロニシティについてちょこっと - finalventの日記

2008年11月15日 pbh シンクロニシティは「凄い偶然」以上のものではない。人が「偶然」と思うのは偶々連続して|同時に|起きた事柄に勝手に「意味を見出す」からに過ぎない。トートロジー

 そういう話題じゃないんですよ。たとえば、pbhさんが受胎するには精子でみるなら何億分の一くらいかな。で、pbhさんがこの世に存在してなんか言語も操っているかのような存在になったかのような状態は一つの精子からすると「凄い偶然」なんだけど、じゃあ、そうして現在存在しているpbhさんはその偶然の上になりたっているわけなのに、そこでpbhさんが「「意味を見出す」からに過ぎない」と言いえるのは、その偶然を必然のように内包した前提条件があるよね、ということ。そしてそこは、どうにもトートロジーになりにくいってことなんだよ。通じないかな。通じなさそうだね。ほんとに乙、って感じかな。

2008年11月15日 ublftbo 疑似科学, 科学 疑似科学撲滅の運動をしている人がいるのか……それは恐ろしいなあ。

 これは揶揄のつもりなんじゃないかな(あるいは洒落がわからんか)。

2008年11月16日 takanorikido アルファブロガーがあからさまなトンデモにはまって恥かく事例が異常に集中してます! 確かにシンクロニシティです!(笑) …ほんまこの癖さえなければfinalventはわりと理想の知識人なのだが、ないものねだりかな。

 たぶん、「シンクロニシティ」とか言ったとたんにトンデモ認定というくらいのご意見かな。もちろん、私も科学をきちんと語る文脈ではそれを言うなというコードを知っているから言わないよ。そして言わないことで理想的な知識人であるのは、社会からそういう知識人を求められたときだけだよ。まあ、決めつけないでパウリでも読んでご覧なさいなとも思うけど、ダメなんだろうな。ちょっと揶揄に聞こえるかもしれないけど、この手の表層的にトンデモ認定する人たちはえてして、トンデモ耐久力が弱くて、ころっとトンデモに回心しちゃうことがある。シンクロニシティがtakanorikidoさんをおそってころっと回心するというか、そういうことがないといいと思うのだけど。まあ、人生奇っ怪なことが起きるもんだよ。それに向かって、理性を保つっていうことがどういうことかと私は思うのだけどね。まあ、ご自由に。

2008年11月16日 j-kondo 科学, 疑似科学, 心理  どれだけ統計的に意味がない、科学ではない、論理的でないと説明されても、いっこうに「血液型と性格の"科学"」が廃れないようなものでしょうか。→『シンクロニシティとして意味了解されててしまう人間の心性』

 これをいうとまたトンデモ・オカルト認定になりそうなのだけど、こうした心性のありかたにはそれなりのメタ意味があるのではないか。というか、この問題、エントリ中では失恋を例としたけど、現実的には恋愛に関係する。私たちの恋愛はたぶんにシンクロニシティ「的」。もちろん、そういう言葉を使わなくてもいいのだけど、ご縁とか出会いとか運命とか。いずれにせよ、そうした偶発的な、そしてそこで新しく意味が開示されるような外部の力との遭遇がある。あるいは、現実にはそんな恋愛がなくても、恋愛というものはそういうふうに描かれ、私たちの生に独自の意味を与えるというメタ的なものをもっている。この問題は、シンクロニシティですかぁ、はぁ、オカルトですか、とんでもですか、アルファブロガー気違いほいほいと、そう簡単な問題ではないような。
 
追記
 なんか誤解されているなぁ、まあ、しかたないけど、どこでこうもべたな誤解がなされるのかと思ったけど、あれ、もしかして、私がシンクロニシティが実体的に客観的にあるとでも思ってこれを書いていると思っているのでしょうかね?
 そんなことは全然ないんですよ。
 シンクロニシティがあると言っているのではなく、シンクロニシティとして意味了解されててしまう人間の心性っていうものはなんだろうということと、そして、その意味了解をもとに個人が意味的な活動をしてしまうというのは、もうどうしようもないんじゃないか、というあたりの、一種の現象学的な明証性であって、客観的なということではないんですけどね。
 
追記
 参考
 ⇒ほいじゃ再録 知の構築とその呪縛 - finalventの日記
 ⇒極東ブログ: [書評]わたしたちはなぜ「科学」にだまされるのか(ロバート.L.パーク)
 ⇒極東ブログ: [書評]わたしたちはなぜ「科学」にだまされるのか(ロバート.L.パーク) その2
 ⇒なんというか - finalventの日記
 ⇒http://d.hatena.ne.jp/dlit/20080130/1201670752#c1201909033