曇天、ひどく疲れた

 朝、泥土のように疲れていた(が、疲れマラでなく云々)。理由はいくつかあるし、直接的な理由もある。直接的な理由はマネッジできる。問題は無意識的な部分に折り重なっている部分だ。なかなかそこは難しい。現実に生きるという、ある意味では雑事のようなものが必然的に科してくるタスクというものはある。これは対処する以外ないし、おそらくそういうものへの嫌悪は身体深く自死を起動させてしまう。
 ネットについては、率直に言って、昨日のドーンPVゲット戦略にはまいった。先日の、あるいはよくあるデマゴーグでPVゲット戦略もだが、率直に言うと、いわゆるネガコメゴミ以上に困ったゴミだなという思いがして、どこかしら、こりゃ是正してやんなきゃと……釣られる……しかし、これらは一過性というか周期性のものであり、いわゆる衆愚と同じで、どうにもならない問題だ。だが、まだまだそういうものに対する自分のスタンスができない。「極東ブログ: モラルの低い人を傍観する時」と同じように、なにかしらうまく解けないものがある。
 あと、いずれにせよPVゲット戦略は頭のいい人がやることで、それなりに頭のいい人はいる。というか、ブログを見ていると私より数段CPUが優れたブロガーはいるなと思うし、別段そこで自分は劣等感みたいなものは感じない。この人は切れるな、と思うくらい。誤解されるかもしれないが、30代くらいで頭のいい人は切れまくる(ぶっち切れじゃなくてね)ものだが、自分もそういうポジションにある程度いたので思うのだが、それはそれほどビューのあるもではない。というか、よくある言葉で言えば、人生は甘くない。女子と小人は養ひがたきとなすというのは、よく言われている解釈ではない。


子曰く、唯だ女子と小人とは養い難しと為す。これを近づくれば則ち不孫なり。これを遠ざくれば則ち怨む。 (陽貨)
 不孫にならぬように女性に接し、劣る人間(小人)には適切な距離を取りなさい、そうして彼らに対して責任をとりなさい、それはとても人生において重要なのことなのだから、実践のなかで具体的な関わりをよく思考しないさい、という意味だ。
 答えなんかないのだし、そうした関わりのなかでしか人は生きられない。今こうして師の教えに接して思うのは、おそらく仁はその総体のなかにあるのだろう。
 五十にして天命を知る、つまり、私の人生オワタ、そしてでも、耳に従うまでの達成はないし、そういうものか。嗚呼。