「何という愛」コーリー・テン・ブーム

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何という愛
 コーリー・テン・ブームの「わたしの隠れ場」を読もうとしたのだけど、絶版らしく、現在購入可能な、「何という愛」を読んだ。小冊子なので、数時間で読めると思う。人によっては圧倒的な感動を受けると思う。
 邦訳書は三部構成で、第一部は病む人や死を恐れる人に向けた短い説教。これはけっこう自分にそのままつきささる話。第二部はコーリーの収容所体験に関連した話。「わたしの隠れ場」と重なるのではないかと思う。手短に書かれているが恐ろしい話と感動的な話が書かれている。第三部はアフリカを含め各刑務所で死刑囚などと対話した話。これもインパクトがある。
 ざっと読むと、いわゆる福音派の普通の信仰のように思えるし、以前の自分なら、史実は参考になるけど、信仰は、まあ、こういうのあるよねくらいで読み飛ばしたかもしれない。今の自分からすると理解の補助になっている部分がけっこうあって驚いた。もちろん、福音派的な信仰と自分の理解と異なるところもあるが、それでも、贖罪については、コーリーのこれでもよいんじゃないかと思えた。
 シンプルにキリスト教の信仰のエッセンスが描かれていて、こういう信仰にすっと入ってすごされている方は恵まれているのだろう。私は複雑になりすぎた。
 話が前後するがコーリー・テン・ブーはこういう人⇒コーリー・テン・ブーム - Wikipedia

コーリー・テン・ボーム(Cornelia Johanna Arnolda ten Boom、Corrie ten Boom、1892年4月15日 - 1983年4月15日)は、第二次世界大戦中に多くのユダヤ人をナチスから助けたオランダ人クリスチャン、ホロコースト生残者である。テン・ブームはその体験を、同名の映画にもなった自伝『わたしの隠れ場』の共著で著した。1967年12月に、イスラエルから諸国民の中の正義の人の栄誉を受けた。

 偶然だろうけど、コーリー・テン・ブームは誕生日に死んでいる。
 他にこれに詳しい⇒テン・ブーム博物館
 ⇒テン・ブーム一家

 ウィレム・テン・ブームは1837年に時計店を開きました。この一家は敬虔なクリスチャンで、その時計店の上の階を必要がある人々のための[オープンハウス]としていました。
 1844年、霊感に満たされたオランダ改革派のある礼拝後、ウィレムは毎週ユダヤ人とエルサレムの平和のために祈る(詩篇122篇:6節)の祈り会を持ち始めました。 彼の息子キャスパーは自分の家族と共に一家の伝統である祈りを継続しました。この祈り会は、1944年2月28日にナチスの兵士にキャスパーとその一家全員が「ユダヤ人をかくまった」罪で逮捕されるまで、100年間続けられました。
 世界第二次大戦中は、テン・ブーム家はクリスチャンとしての信仰を、自宅をナチスによって追われていたユダヤ人や地下運動員のための逃れの場、また隠れ家として提供することによって表明していました。

 実際には、福音派というより、オランダ改革派なのでカルバンに系譜なのだろうか。彼女の信仰を見るかぎり、予定説的なものはないようだが。
 「わたしの隠れ場」の経緯。

 1943年から1944年にかけては、テン・ブーム家にはたいてい7人もの不法のユダヤ人や地下運動員が暮らしていました。それ以上の逃れ場の必要な人々はテン・ブーム家に数時間、または数日の間、別の「安全な家」が見つかるまで滞在していました。コーリーはハールレムの地下運動のネットワークのリーダーになりました。コーリーと「ベジェのグループ」は逃れている人々を受け入れる勇気あるオランダ人の家族を探しました。コーリーは一旦隠れるようになった人々の世話をするためにほとんどの時間を費やしました。 これらの活動を通して、テン・ブーム一家とその多くの友人たちはおよそ800人のユダヤ人の命を救い、地下運動員を保護しました。
 1944年2月28日、キャスパーの家族は裏切られ、ゲシュタポナチスの秘密警察)が家を強制捜査しました。ゲシュタポはわなを仕掛けて1日中待ち、その家に来た人を残らず逮捕しました。夕方までに20人以上の人が監禁されました! キャスパー、コーリー、べッツィは皆、逮捕されてしまいました。コーリーの兄ウィレム、姉ノーリー、それに甥のぺーターもその日はその家にいたので、牢獄に連行されました。.