ちょっとだけ2

 ホロコーストについてウィキペディアの記載を読んでちょっと思ったこと。
 ⇒ホロコースト - Wikipedia
 話は錯綜させないためにあえて、これだけがソース。
 で。

ナチスによる迫害と殺戮は、段階的に行われた。まず、第二次世界大戦の開始より数年前に、ドイツ国内でユダヤ人を社会から除外する法律が制定された。次に強制収容所が建設され、犠牲者はそこで過労か病気で死ぬまで奴隷労働をさせられた。ナチス政権が東ヨーロッパで新たな領土を占領するたびに、アインサツグルッペン(Einsatzgruppen) と呼ばれる特殊機動隊がユダヤ人や抵抗勢力を公開銃殺刑にした。ドイツ国内のあらゆる官僚組織が、この大量殺戮計画を迅速に実行できるように尽力したため、当時のドイツは一種の「殺戮国家」(genocidal state)となった。

 この記載が正しいとしてという条件で。
 2点、ちょっと思ったというか。
 
 1点目だけど。理解モデルがAとBとあるとすると。
 A「『除外』が段階的に行われ、エスカレートして、ホロコーストになった。つまり、社会的除外を必要とするなんらかの要因があり、それが合理化されたから、結果的にホロコーストになった」
 B「最初にジェノサイド思想ありき、そしてそれが合理的に実施された。段階は合理性の表出に過ぎない。」
 で、私はBだと考えている。
 ウィキペディアの記載では。

1938年11月にドイツ全土とオーストリアでおきた水晶の夜 (Kristallnacht) 事件、1939年から1941年に優生学思想に基づいて実行された安楽死政策T4作戦をホロコーストのはじまりと定義する歴史家は多い。その後、第二次世界大戦の戦局の悪化に伴い、ナチス政権は絶滅収容所の導入など、殺害の手段を次第にエスカレートさせていったとされる。ナチス党はとくにユダヤ人の殲滅政策 (die Endlosung der Judenfrage 「ユダヤ人問題の根本解決」または die Reinigung, 「民族浄化」) を重要視して、約 500万から700万人のユダヤ人を虐殺したとされる。

 ここから読めるのは、「殺害の手段を次第にエスカレートさせていった」とはいえ、その根幹に殺害の思想があったということで、Bではないか。
 また。

当初ナチ党の対ユダヤ人政策で具体的に目指されたのは、まずユダヤ人を強制収容所やゲットーなどに集合隔離し、その後ドイツの勢力圏外へ大量の強制移住によって追放する計画(マダガスカル島が候補地とされていたという)であり、劣悪な輸送環境と移送先の過酷な気候によって大多数が死滅するだろうという漠然とした予測をもって立案されていた。

 これはつまり、最初から死滅の予想で実施されたということではないか。つまり、B。
 で、Aは微妙に歴史修正主義に近いのではないか。
 ホロコーストを否定していないという点ではベタな歴史修正主義ではないけど、ホロコーストが除外といった殺戮を否定する時点から段階的に発展した、合理性の結果に過ぎないというAの主張は、歴史修正主義と同様にジェノサイドの思想を免罪する思考法に見えるのだが。
 
 2点目は。ホロコーストドイツ国内という限定性の問題なのか、ということ。私はこれはこれはフランスにも拡大していく超国家の運動だと理解している。違うかな。先の記載では、「新たな領土を占領するたびに」ということ。別の言い方をすれば、国家に閉じるナショナリズムの問題ではなく、国家を拡張して他を内包する一つの極端な在り方として、ある種の帝国主義的な問題でしょう、と。
 
 ウィキペディアの記載を離れて、史学的にはどのあたりが通説なのか。あるいはこの問題はAとして議論されているのだろうか、と、ちょっと気になった。
 
追記
 AかBかではなく、AもBも、または両者は不可分というコメントもいただくが、AであればBは従属するけど、BにAは従属しない(ジェノサイドという国家意志の所在がゼロになるから)。
 なので、AかBか、または、AにBが従属するか、ということではないのかと思うので、AもBも、または両者は不可分という考えは、やはりAかBか、または、AにBが従属するかということを回避する発想に見える。
 
追記
 ⇒はてなブックマーク - ちょっとだけ2 - finalventの日記

2008年08月20日 ohkami3 「免罪する思考法」←どうしてこの発想に行き着くのかが気になった。

 Aは歴史修正主義の亜流ではないかと思ったからです。現代社会はホロコーストを免罪しようとする思考法である歴史修正主義の変形に気をつけるべきでしょうというのがその発想の根です。

2008年08月20日 Apeman そうでないと山本七平が困るからねぇ。

 なぜ山本七平? 困る困らない以前に彼はもう死んでますよ。

2008年08月20日 Midas どちらでもないと思う。むしろ「どっちだったの?」という問いを不可能にする位、合理思考という新しい手法がパラダイムチェンジだった。故に虐殺まで及んだ。歴史の断絶とは何かを想像すらつかないものにしてしまう

 ポグロムについて学ぶといいですよ。ユダヤ人を対象にしたジェノサイドは、近代の合理性と独立に存在しています。こうしたことを忘れることが歴史の断絶です。
 ご参考までに⇒ポグロム - Wikipedia

2008年08月20日 kyo_ju 歴史, 社会, 議論 意図がいまいち判らない。/Wikipediaの当該項目にもローゼンベルクのシオニズム支援論の記載あり。マダガスカル計画が殺戮目的かも微妙っぽい。/ポグロムは近代ナショナリズム・人種主義と関連ありそう(発生年代的に)。

 「マダガスカル計画が殺戮目的かも微妙っぽい」はAの理解ということ?
 ポグロムにはしかしナチズムの合理性はないでしょう。

2008年08月20日 knnn4321r 「日本人である私たちはジェノサイドに鈍感であってはいけない」同意。でも→は本当に蛇足かも。「日本人だってジェノサイドをやりうる。」南京事件否定派ですか。織田信長伊達政宗も日本人だ。

 「南京事件否定派ですか。」は私を指している(つまり侮辱ってやつ)? だったら、私は南京大虐殺を否定したことはないですよ。
 ちなみに、イザヤ・ベンダサン南京大虐殺はあったと言明していますよ。
 それと、ダルフールで進行しているジェノサイドを「本当に蛇足」に含めないでくださいね。

2008年08月21日 mstil genocideかどうか……明らかになっていない。明らかになったのなら、私たち日本人はその非を公的に謝罪しなければならない。>massacre、atrocity、carnageだったら謝罪しなくてもいいのか?「genocideじゃなきゃOk」理論。

 OKとは思わないですよ。massacre、atrocity、carnageであれ、また国民の合意が形成できるなら相応の対応があってもしかるべきかとは思います。ただ、genocideがもつ民族的な重みとは違い、例えば南京大虐殺のような戦争犯罪といった枠組みになるなるでしょう。genocideの重みについては観念的に考えるよりその経験のある他国のようすを参考にしたらいいと思いますよ。
 関連⇒http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20060318#c1143106275

2008年08月21日 yamatedolphin Bからしか見ないのであれば同性愛者や障害者への迫害の説明がつかないなと思っていろいろ検索すると、歴史学的にはAを中心に理解するのが主流で、しかもBの方が過去の免罪に傾きやすい考え方だ、という事が分かった。

 そうした観点を否定しないのだけど、最初にユダヤ人虐殺の視点をはずせばそうなるという帰結のように思えます。
 これなどお勧めしたいとは思いますが。

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ユダヤ人とドイツ (講談社現代新書): 大沢 武男
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ヒトラーとユダヤ人 (講談社現代新書): 大沢 武男

2008年08月21日 umeten 海外, 社会, 歴史, 政治, ナショナリズム, 全体主義, 差別問題, アウトサイダー問題, 批評 Googleストリートビューは、情報弱者に対するジェノサイドではないかと思った。

 ジェノサイドは、ジェノ=種、サイド=殺戮ということで、基本に種への組織的な殺戮の意味合いがありますよ。

2008年08月22日 Ivan_Ivanobitch なんだか無理無理B説にしたいがための強弁にもみえる。/これも歴史修正主義の第一歩たり得るなぁ

 いえ全然そうではありませんよ。「史学的にはどのあたりが通説なのか」と書いたとおりに思っているだけです。それと、B説はホロコースト議論の原点にあるもので、歴史修正主義のもっとも反対の地点にありますよ。原点が歴史修正主義の第一歩というのはありえないでしょ。
 
追記
 めたぶくま⇒はてなブックマーク - はてなブックマーク - ちょっとだけ2 - finalventの日記

2008年08月20日 Midas コメントした はたしてダルフールの虐殺とやらに、あの偉大なる総統閣下を創めとしたアーリア民族が全霊をあげ計画、立案した「ナチズムの合理性」がどれほどあるか、実際彼らがどれだけ杜撰か、軍ヲタ100人に聞いてみるといい

 「ダルフールの虐殺とやら」という「やら」の含みがよくわからないので、単に、「ダルフールの虐殺(atrocity)として。
 そして、私は軍オタではないけど、そこに「ナチズムの合理性」はないと思いますよ。
 だから、ジェノサイドは合理性とは独立です。
 ジェノサイドの問題は、ジェノ=種をサイド=殺戮するということにおいて国家・民族的な組織性が問われるところです。
 それと。
 「あの偉大なる総統閣下を創めとしたアーリア民族が全霊をあげ計画、立案した「ナチズムの合理性」」というホロコースト理解は、私と同じA説に近いかと思います。ただ、私は、「あの偉大なる総統閣下を創めとしたアーリア民族」という民族実体の固有の問題ではなく、ポグロムのような反ユダヤ主義という思想の問題だと思います。つまり、この思想は別にアーリア民族に特定されるものではなく、またその思想を分かつ民族的な歴史背景が存在するのだろうと思います。
 それに関連して。
 ⇒それはもう私(ら)とは関係のないはなしになってます(意図派vs機能派) - Apes! Not Monkeys! はてな別館

「ジェノサイドの思想」を焦点化する発想と「民族」についての本質主義とをセットにすれば「だから日本人はジェノサイドをやらない(それゆえ関東大震災時の朝鮮人虐殺はジェノサイドではない)」という結論を引き出すことができる。

 ここでも奇妙な誤解の根があるのだけど。
 Midasさんの「「あの偉大なる総統閣下を創めとしたアーリア民族が全霊をあげ計画、立案した「ナチズムの合理性」」というふうなアーリア民族理解だと、「民族」についての本質主義に近いかなと思うのですが、私は民族を本質主義としてとらえてなくて、歴史経験の共有の幻想体として見ています。
 だから、民族の固有性、本質主義という観点に立たないのです。というか、私はその意味で民族については本質主義批判に近い位置にあります。
 ただ、「ジェノサイドの思想」を焦点化という点では、それを焦点化しないことには、そもそもジェノサイドという問題が曖昧になってしまう。
 別の言い方をすれば、「他者排除+合理性」というもののアプリケーションとしてホロコーストがあるといった非焦点化の視点では、ホロコーストの本質が理解できないのではないですか。
 むしろ、ホロコーストでは反ユダヤ主義という負の側面の歴史経験の共有の幻想体が、歴史的に問われるところが問題だと私は思います。
 (あと焦点化なくして国家犯罪は認識できないのではないかと思います。国家の機能ではなく、国家の意思に犯罪性があるのだというのが国家犯罪の問題の根幹では?)
 
追記
 ⇒それはもう私(ら)とは関係のないはなしになってます(意図派vs機能派) - Apes! Not Monkeys! はてな別館
 「私(ら)」ご一行様に関係があるとは私も思わないですけど。

 >2008年08月20日 Apeman そうでないと山本七平が困るからねぇ。
 なぜ山本七平? 困る困らない以前に彼はもう死んでますよ。
 
またまた〜、おとぼけになって。

 とぼけてないですよ。私は死後の生命を信じていないし。

「ジェノサイドの思想」を焦点化する発想と「民族」についての本質主義とをセットにすれば「だから日本人はジェノサイドをやらない(それゆえ関東大震災時の朝鮮人虐殺はジェノサイドではない)」という結論を引き出すことができる。

 それは考え過ぎでは。
 日本人もジェノサイドをするかもしれない。それどころか、関東大震災時の朝鮮人虐殺はジェノサイドだったかもしれない。
 関東大震災時の朝鮮人虐殺については、massacre、atrocity、carnage という意味での虐殺は疑いようがない。
 だけど、諸研究はあるけど、genocideかどうか国家の見解は明らかになっていない(あるいは国際的にそれが認定されているどうか)。明らかになったのなら、私たち日本人は国家を通して朝鮮民族にその非を公的に謝罪しなければならない。ドイツ人がユダヤ人にしたのとまったく同じように。
 私はそれをまったく否定していない。

これこそ『ユダヤ人と日本人』が目論んだことの一つでしょうが。本質主義批判と機能派的なホロコースト理解を組み合わせれば「ジェノサイドに手を染める危険性を免れている”民族”などない」という結論になるわけで。

 それも考え過ぎでは。
 というか。
 「ジェノサイドに手を染める危険性を免れている”民族”などない」というのは、正しいんじゃないですか?
 どの民族でもジェノサイドに手を染める可能性がある。
 もうちょっというと、すでに日本人はダルフールでのジエノサイドに間接的に手を染めていますよ。

追記2:うわ、歴史を修正されてしまった。

 私としてはそれも誤解だと思います。ただ、そう言っても通じないでしょう。私は自分の考えが一貫して変わらないと主張したいわけではありません。生きているのですから、最近の考えを軸に考えていただければいいなと思っています。
 
蛇足
 イザヤ・ベンダサン著作は、山本七平以外に純正にユダヤ人であるミンシャ・ホーレンスキーを含んでいる(また、もう一人のジョン・ジョセフ・ローラーもユダヤ人ではないか)。いずれにせよ、イザヤ・ベンダサン著作は、ユダヤ人を含めてその承認をとっている(ゆえに生前は著作権を山本は持つことができなかった)。だから、山本七平の直接の思想ではないし、ましてイザヤ・ベンダサンを偽ユダヤ人とするなら、ユダヤ人であるミンシャ・ホーレンスキーへの別の意味での民族差別でしょう。
 繰り返しますが、日本人だってジェノサイドをやりうる。だから、日本人である私たちはジェノサイドに鈍感であってはいけないし、鈍感であってはいけないということは、今進行中のジェノサイドを食い止めるべく努力しなくてはならないということ。
 関連⇒今日の大手紙社説 - finalventの日記
 
補足
 現代世界の視点で見るなら、ダルフール危機はジェノサイドとは断定できない。
 ガーディアンはatrocities(虐殺)と呼んで、留意している。
 ⇒Sudan's president denies involvement in Darfur atrocities | World news | guardian.co.uk
 ジェノサイドは国際間の評価が必要になるからというのもある。
 欧米でも該当しないという意見はある⇒Is Darfur Genocide? - Sam Dealey (usnews.com)
 現状については。
 ロイターによる報道⇒World | Africa - Reuters.com
 ロイター報道が顕著だが、国家意志としての虐殺という点が、現代におけるジェノサイド認識に問われる。実際の評価にはもちろん種の殲滅の意志は中心課題になる。
 いずれにせよ、虐殺ならそれで終わりということはなく、というか虐殺自体は自明なので、ジェノサイドが現代的な評価においてダルフール危機において問われるかということが国際的には大きな課題になる。くどいけど、それだけ、ジェノサイドであるかどうかは大きな課題だということ。