物騒な話題の雑感

 えっと、特にどうたらいう文脈でもないけど。
 「動物化」というのはわからないといえばわからない。勉強が足りませんなこりゃというのは率直に認めるけど、対立する概念が「人間」であるなら、そういう人間は、フーコーじゃないけど終焉したのではないか。
 近代が「人間」を作り出し、それが終焉して、管理化された動物的な存在が現れるということなのか、私としては、人間の終焉の後に出てきたのは、断片だと思う。知性や技術によって断片化した存在。あるいは経済によって断片化した存在。
 かつては、というかルネサンス的な人間では、そうした断片を恋愛とかまさに人文みたいなもの、あるいはドイツの教養小説ビルドゥングスロマン)みたいなもので統合された人間を描こうとした。でも、それはかなりもうダメなんじゃないか。
 では、人間は断片化されっぱなしなのか。そこはよくわからない。というのはこれは技術=ゲシュテルという存在の開示と関係していると思うからだ。単純な話、GoogleWikipediaみたいのは断片の非人間性をブーストすることで無駄な断片性をむしろ抑制して人間に人間的ななにかを返却しつつある。両義的なんだけどね。
 いずれにせよ、私は、動物化対人間、というような枠組みでは現在を見てない。
 あと、信頼というのは度数的になる場合、実はその度数によって、人間個体間が関数化されている。つまり、人間の信頼は計量的になってしまう。むしろ、人間を作り出した近代は国家=一般意志を介在させることでそこから個を救い出した(非計量的に)。で、これはかつての中世的な神と人とのλ(Λ)的な関係性でもあるというか、中世においてやλ的な関係ではなくて、ゲマインデと神の関係があった。その意味でλ関係はプロテスタンティズム的というか近代的なもので、絶対神というのが地上の教会から隔絶されたときに必然的に出てくるものだったのかもしれない。その意味で、友愛原理というのは、背景に絶対神的な信仰の共有があるというか、密儀をかならず持っている。
 近代におけるナショナルなものは、むしろ中世的な階層性あるいは重層性を包括するところで成立した。ドイツなんか実際には、プロテスタントの文化とカトリックの文化は別だし、国家が成立するにはその統合性が求められた。ところがそれがプ文化とカ文化を統合するというよりうまく機能せず、むしろその暗在的に統合を実質担っていたのがユダヤ文化だった。その意味で、近代にいたるドイツ文化というのは、実はユダヤ文化と言ってもいいくらいかもしれないが、そこで国家の統合性が逆に機能してそこを排除してしまったのではないか。
 話はずれる。
 アウシュビッツというのはジェノサイドなのだが、ジェノサイドという行為はけっこう西欧において頻繁に起きるし、中近東でも起きる。どうも元の概念は旧約聖書のようでもある。つまり、ユダヤ教キリスト教イスラム教にこれらは同じ根をもっているっぽい。このあたり、日本人はジェリコの戦いとかあまり普通に知らないっぽい。日本人キリスト教徒もあまり考えてないっぽいというか、信仰とのこの問題の関係がよくわかってないっぽい。
 とか思ったら、それなりにウィキペディアに記載があった。
 ⇒エリコ大虐殺 - Wikipedia

エリコ大虐殺(-だいぎゃくさつ)は紀元前1300年~1200年前後のパレスチナで行われたとされるカナーン人の大虐殺である。イスラエル人の指導者ヨシュア古代イスラエルの連合軍によってなされた。聖書によればエリコ市民は女性や子供・乳幼児も含めて全員虐殺されたという。

 史実ではない可能性は高いのだけど、このとき聖書の神はこの虐殺を命じている。このあたりの感覚が日本人にはわかりづらい。
 これは、あの忌まわしい言葉、ethnic cleansingが関係している。この現代語の背景についてはいろいろある
 ⇒民族浄化 - Wikipedia
 で、ここで日本人にわかりづらいのは、いずれにせよ、
 ⇒聖絶 - Wikipedia

この意味の聖絶は、通常は、イスラエルに敵対する異民族(通例は町単位)に対して、「彼らを聖絶する(一般の翻訳聖書では「滅ぼし尽くして神へ捧げる」)ので自分たちに力を与えて欲しい」というように神へ誓願する形で行なわれる(民数記21:1〜3)。聖絶対象とされた敵対異民族は全員が剣で殺され、また家畜も含め生けるものは全て殺戮された。通常の戦闘では許される女子どもの捕虜も、また家畜などの戦利品も、聖絶においては自分たちの所有物とすることは許されず、全てが神への捧げ物とされる。それ以外の剣でもって滅ぼせないものは火をもって焼き尽くされ、また、燃やすことの出来ない金銀財宝などは神殿の奉納倉へ納めて、「呪われた汚らわしきもの」として民衆の手からは隔離されなければならなかった。そして、聖絶のものを私物した者は、神の怒りに触れるものとして、罰として処刑された。

現代のキリスト教ユダヤ教では聖絶を表向き肯定する意見は比較的少数派である。しかし、神学上の解釈に於いては猶「この聖絶は神の御心に沿ったものであり、現代では許されないことだが当時は正しかった」とする意見が根強い。しかしこの聖絶という行いは現代風に言えば間違いなく「民族浄化」に他ならず、ユダヤ人のホロコーストを想起させざるを得ない行いである。聖書の無謬性を重んじるか、普遍的人道を重んじるかでクリスチャンやユダヤ教徒の解釈も割れている。

 このあたりの考えかたの歴史背景というのが根深くある。
 
追記
聖絶には「呪われた汚らわしきもの」というのを清めるという発想がある。血統を根絶する=その子孫を残さないようにする、というのが清めるに結びつく発想の原形からこうした諸宗教の発想が出てくるのであって、特定宗教が聖絶を作りだしというのではない(特定宗教が限定ではないんじゃないかということね)、というか、すでにあった俗習的な発想が宗教的な比喩の段階に登るというのが聖絶の意味だろうと思う。このあたりの発想は、たぶん、日本人には理解を絶しているだろうと思う(日本人の「清める」はみそぎとかね)。