東浩紀さんへの返信

 ⇒東浩紀の渦状言論: finalvent氏への応答
 応答ありがとうございます。たぶん、背景の問題の根が深そうなのでごく簡単な返信を書きます。

ナショナリズムの歴史が全体主義の歴史と密接に繋がっていること、そしてその臨界点がナチスドイツの強制収容所であることは、思想史的にはよく言われていることなのではないでしょうか。そもそもナチスの「ナチ」は、ナチオン(ネイション)のナチですし。

 としてそういうこともわかっていないfinalventみたいなのがいるブログだと議論がしづらい(とか書くと皮肉みたいですがそれほどの意図はないです)……として。

世界は複雑であり、学問は専門領域に分割されていて、いちいち文脈を押さえないと議論に参加できないのではあまりに不自由で、したがってすべての反論可能性に開かれているブログはすばらしい場所です。しかし、やはりそれでも、コミュニケーションのコストを低くするためには、他人の主張を批判するときにはあるていど前提を読んでほしいと思います(それこそ信頼社会として?)。

 ということの一般論は了解するのですが。
 がというのは、ナチスドイツの本質を「ナチ」の語源から理解せよというのが前提というのは違うと思いますよ。
 ナチスドイツの本質は、ウィキペディアの記載で「ナチス」を検索しても、
 ⇒国家社会主義ドイツ労働者党 - Wikipedia

国家社会主義ドイツ労働者党
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
ナチス から転送)

 というように転送されてしまうように、その前提は、いやウィキペディアが正しいというわけではなくてごく普通の理解の一例としてですが、「国家社会主義ドイツ労働者党」です。
 つまり、ナチスというのは、ナショナリズムの範型ではなく、国家社会主義のもつ一形態ですし、むしろそうすることで、スターリニズムなども同一の枠組みで見えてきますし、日本の戦前の状況も見えてくるでしょう。
 というわけで、「他人の主張を批判するときにはあるていど前提を読んでほしいと思います」ということに比していうと(なんかこれも皮肉っぽくてすいません)、「他人の主張を批判するときにはあるていど普通の学問的成果を前提を読んでほしい」と思います。
 もうちょっとウィキペディア的に補足すると。

通称の由来:「ナチ(独: Nazi)」とは、当時の対抗勢力がナチ党員に付けた蔑称であった。ドイツ社会民主党員は同じように Sozialisten を短縮してゾチ (Sozi) と蔑称されていた。ナチス (Nazis) は複数形である。ナチスの呼称は日本で戦前から使用されている(後述の「文献」参照)。現在は英米でも Nazi Germany のようにドイツ語の Nazi がそのまま使用されている。ドイツでは現在は、Nazi よりも Nationalsozialismus の略号である NS を接頭語に例えば、NS-Deutschland のように造語される。

 であって、東さんの

そもそもナチスの「ナチ」は、ナチオン(ネイション)のナチですし。

 はちょっとずれていて、もとは、Nationalsozialismus、つまり、やはり、国家社会主義から来ています。
 で、私が思想界の常識を知らないだけかもしれないけど、問題は、国家社会主義がなぜアウシュヴィッツに結びつくかということではないでしょうか。つまり、東さんがおっしゃられるナショナリズムからアウシュヴィッツに結びつくという観点は基本が失当されているように私は思います。
 この事はたぶん、国家観に由来するとも思うのですが。
 国家がどのように成立するかというとき、ナチスのように血統的な民族の幻想を起点とする場合と、フランス革命以降の近代国家における友愛の原理によるものとは違いがあります。
 この点は、実際フランスのレジスタンスが愛国的なナショナリズムから起きたことでもごく単純に理解できることだと私は思います。もっとも、フランスの場合はパトリオティズム愛国主義)であって、ナショナリズム国家主義)ではないといった議論も可能かと思いますが、であれば、その差異は、やはり、血統的な民族幻想か友愛の原理の差異になるでしょう。そしてどのどちらもやはり国家を基軸とした運動です。
 ちょっと余談になりますが、実際の当時の(けっこう今でも)ドイツのコンテクストに戻すと、友愛の原理はプロテスタント文化とカトリック文化に分裂しておりそのグリュー(糊)の役割をユダヤ人文化が担っており、そのグリューを反ユダヤ主義によって切り離すことで友愛の原理が消失されたことが、友愛という国家原理が機能しなかったことではないかと私は考えています。むしろ、白バラなどもドイツ青年運動に起源をもつナショナルな運動と見ることもできるかと思います。とま、余談でしたが、このように個別の歴史事象には個別の背景もあります。
 あと、信頼の件について、「trust」とされるわけですが、そのあたり単純にわかりませんでした。trustは日本語の「信頼」の含みもですが、「委託物」の含みがあり、国家の原理では、本来個人が持つ権限を国家に委託する構図があります。つまり、国家はそれを委託されるがゆえの信頼という構図があり、この問題では、まずそうした国家の義が問われ、そして国家の義とは、市民を社会から保護することにあります。今回の文脈でいえば、社会のなかで信頼が度数的に問われていることで市民に差異が生じる場合、国家はまったくそれを無視して義を執行し、市民を社会から守ることが責務となります。
 

追記
 東さんのエントリの追記、読みました。泥沼化させる意図はありませんし、私としても、「あとは読者が判断するでしょう」でまったくかまいません。ちょっと困惑させることになって失礼なことをしてしまったなという反省はあるので、その点は申し訳なく思っています。
 ごく単純な確認というだけですが(議論を広げるというのではなく、相違点の確認というだけです)。

いずれにせよ、「アウシュヴィッツナショナリズムとは別の話だ」というのがfinalventさんの主張で、その両者は深く関係しているというのがぼくの主張で、そここそが大事な相違点です。ほかは枝葉末節にすぎません。あとは読者が判断するでしょう。

 ええ、その相違はそのまま残ります。私は「アウシュヴィッツナショナリズムとは別の話だ」と考えています。広義にも別だし(ジェノサイドはナショナリズムから起きるとは限らない)、狭義でも(この点は文化差と白バラで少し言及したとおりです)。
 違った考えがあって私はまったくいいと思っています。
 お仕事頑張って下さい。