マルクスは市場をどう考えていたのかでちょいと

 いや、ごくちょいと。
 昨日のこれの続きのような話。
ちょっと野暮なツッコミしとくかな - finalventの日記
 関連は。
 ⇒[書評]「はだかの王様」の経済学(松尾匡): 極東ブログ
 ⇒World 3.0 という雑想: 極東ブログ
 ほいで、ちょいとというのは、マルクスは市場をどう考えていたのか。
 一般的に社会主義と市場主義(?というのは新自由主義とか同じで定義が意味不明っていうか新自由主義とかいうやつノータリンじゃないのか)というのは対立して考えられている。そして、一般的によくあるおサヨクさんは、市場主義(?)や市場社会、市場経済を否定しちゃう。それこそ、格差の原因だとかぬかして。
 おサヨクさんがそうなっちゃうのは、前のエントリでもそうだけど、吉本隆明がすぱっと言ったように「右翼とか左翼かというのはスターリンの作った概念」でしかない。で、レーニンにも責任があるんだけど、日本とかにうじゃうじゃいる社会主義者というのは、基本的にレーニン主義からソフトスターリニズムでリベラル風味をしているだけで、そのリベラル風味とソフトスターリニズムで「大きな政府」を求めてしまう。ところが、本当の左翼はというのもナンセンスだけど、マルクス主義というのは、国家をどう止揚するかという理念がないとめちゃくちゃになってしまうもの。
 ほいで、前回ちょっと書いたのだけど、マルクスは市場をどう考えていたのか、だけど、普通は、市場主義(?)や市場社会、市場経済を否定しているかのように理解されているけど、資本論三巻とかだと、「一定財貨の生産に費やされる社会的労働の範囲が充たされるべき社会的欲望の範囲に照応するなら、商品は市場価値どおりに交換される。」というあたりにも含みがあるけど、市場が十全に機能すれば、社会的労働が市場価値となる。ただ、三巻はエンゲルスがめちゃくちゃに編集したのでマルクスが何を考えていたのかはよくわからないというのはしかたない。
 で、ここで難しいというか、あまり自分と同意見の人を見たことがないのだけど、というのは、「だから市場が十全に機能するようにせよ」っていう意見はあるのだけど、私の理解では、この市場というのは、概念なんですよ。
 そういう理想の市場を想定するとそうなる、という話。ほいで、ここからが非常に微妙になり、「「はだかの王様」の経済学」の書評でも書いたけど、そもそもマルクスのいう労働価値みたいなものは、この理想・仮想の市場概念の操作の結果として出てくるということ。これは方法論上の概念装置なんだということ。
 なので、十全たる市場を求めるということと、マルクスの不思議な思考とは必ずしも一致しない。
 だけど。
 それでも、マルクスは市場を否定していない。つまり、現実的な市場を否定しているわけではないので、そのあたりからへんてこな議論が出てくる。
 代表的なのが、市場社会主義論というやつで、これねぇ、というか。実は日本共産党もこれに依存しているし、中国はなんか適当にそれっぽくなっているし、ランゲとかの議論になる。
 また都留重人なんだが⇒「 経済発展と社会の進歩 (1970年): 都留 重人, 斎藤 興嗣, 鈴木 正俊, オスカー・ランゲ: 本」
 ランゲはハイエクなんかとごりごりやっていて、そのあたりは私はよくわからないのだけど、概ねハイエクのいうように市場を制御することは不可能。なので、そのあたりから、市場社会主義論がへんてこになる。
 ただし、ハイエクが批判している社会主義というのは反市場経済というだけで、つまり統制経済ということ、それはちょっとマルクスの市場の意味、つまり私の理解のそれとは違う。
 それといろいろ模索もある⇒「 これからの社会主義―市場社会主義の可能性: ジョン・E. ローマー, John E. Roemer, 伊藤 誠: 本」
 やっかいなのは、資本のグローバルな運動というのが巨大多国間企業を形成し、グーグルみたいに気違いなくらいの計算可能性が出てくると、市場というのが違った意味を持つ可能性はあるんだけど、それはそれとして。
 市場が操作的な概念装置であるとしても、実際の社会はどうあるべきかというと、ローマーみたいな話になっちゃうのかというのが難しい。
 それでも、今の民主党みたいに全共闘世代の老人がソフトスターリニズムをごりごりやるのは、まったくマルクス的な展開ではないというか、あれこそ批判の対象なんだが、まあ、日本のマルクス主義は80年代に終わっている。
 で、昨日の吉本でもそうなんだけど。
 左翼的な言説が、転倒された形でもナショナリズムとして出てくるのは、退廃というか、反動でしかないんだよな。
 ⇒[書評]自由はどこまで可能か―リバタリアニズム入門(森村進): 極東ブログ

 政治思想におけるリバタリアニズムの大きな特徴の一つは、国家への人々の心情的・規範的同一化に徹底して反対するという個人主義的要素にある。リバタリアニズムの観点からすれば、国家や政府は諸個人の基本的権利を保護するといった道具的役割しか持たない。それ以上の価値を認めることは個人の自由だが、それを他人にまで強いるのは不当な介入である。国民的あるいは民族的なアイデンティティなるものが各個人にとってどのくらい大切か、社会にとってどのくらい有益かは一つの問題だが、ともかくその確立は政府の任務ではない。
 ところが今の日本では、ナショナリズムに一見反対している論者たちが戦争世代が戦争責任の引き受けることを主張するというねじれが見られる。しかしそれは日本人すべてに、戦前戦中後を通じた「日本人」という国民集団への人格的帰属を強いることになる。これこそ否定されるべきナショナリズムの一類型である。国が何らかの責任を負うからといって、国民が人格的な責任を負うということにはならない。

 森さんはリバタリアニズムで論じるけど、「ナショナリズムに一見反対している論者たちが戦争世代が戦争責任の引き受ける」「これこそ否定されるべきナショナリズムの一類型である」のは確かで、そのあたりが、吉本が、

 僕はそれを見て罪の意識がいっぺんに取れてしまって、「そうか、そういう意味合いか。後進国革命と考えれば、右翼とか左翼かというのはスターリンの作った概念で、そんなことは問題にならないんだ」と。後進国革命と資本主義が成熟してしまった革命というのは違うので、やっぱりナショナリズムの要素が入ってしまう。中国もそうです。

 というあたり。
 なんでこうなっちゃったの? 後進国だから、というのはばっさりした解答だけど、これで目から鱗が落ちる人は少ない。
 これは、話の理路がちょっと逆で、そして結果的にリバタリアンと同じになる理屈なんだけど、市民社会というのが個人を定義し、個人が友愛(つまり同性愛なんだけどね)で連帯するような協会的社会の個人によって、共同幻想・国家を解体されていないと、必然的に右でも左でもナショナリズムになっちゃうのはしかたないんだろう、ということ。(少子化とか子供が問題になっちゃうのが、そもそも変だと思わない感覚がついてけない。)
 ただ、現実、そこをどう解体するかは、よくわからない。つまり、現実の社会の問題としてどうよという問題。個人の生き方としてなら、すっぱりナショナリズムと縁を切ることは可能で、吉本みたいにさっぱりしちゃうのもありんだけど、問題はそういうことでもないということ。
 話をマルクスに戻すと。
 のわりに話がそれるんだが、マルクスの資本主義の批判の要点では恐慌論だった。これね、一昨年の世界経済でもさすがにお左翼さんでももちださなかった。マルクスの恐慌論は死んだのかもしれないのだけど、私のちょっと飛躍した理解だと、これは、超国家が通貨発行権を持っちゃったからそのテクノロジーの問題に還元しちゃったんじゃないか。
 で、私がリフレ派さんとどうも体感的にそれほどしっくりこないのは、リフレというのは超国家が通貨発行権に関係していて、どうも究極の弥縫策のように見えること。つまり、マルクスの恐慌論の最終的な間違った隠蔽なんじゃないかという疑念が晴れない。
 現実問題としてはそんなこと言っててもしかたないし、バーナンキ僧正は世界を救ったし日銀は日本を終了させてくれた。ありがとう。
 このあたり、ハイエクとかが徹底して、そもそも通貨発行権を否定しちゃえというのがある。まあ、わからないでもないけど、じゃあ、富ってどう蓄積されるのか、という問題になってめちゃくちゃになる。
 おそらく国家から超国家であってもナショナルな共同幻想通貨発行権と癒着しちゃうという問題はそう簡単には解ける問題じゃない。じゃあ、市場もそれでいいじゃん、国家が市場を操作していいじゃんとなるだろうと思う。まあ、それは、全然違うと思うのだけどね。
 あー、ふと思ったのだけど、西洋的な個人というのは、日本の場合、同性愛者というより、非モテから鬼畜ということかな。非モテ鬼畜が増えると日本ナショナリズムは終了するかもしれない。そんなのあり?