なんというか

 鳩山兄さんの「友愛」がネタにされることが多いが、この日記をもし継続的に読まれている人がいたら、その「友愛(fraternity)」がこの日記の一つのキーワードに結果的になっていることを知っているのではないか……いやそんな読者を想定するのは幻想かな。
 fraternityというのは存外に難しい概念で、多様な含みもあり、おそらくはマルクスのいうassociationにもつながるのだろうとは思うのだが、そうした社会原理的な捨象の前に、絶対主義時代が実際には社団社会(社団国家)であり、婚姻が社団の機能を持っていたあたりで、欧米の婚礼には神が娶せるという受動性(だから英語だとbe marriedの表現が多いのだけど)に加えて、Impedimentというものがある。日本語でなんというのか、字引を見直すと、「〔結婚などの法的契約の〕履行障害」というのがある。まあ、そうなのだが、これを結婚では会衆に問うことになっている。「テス」の話が顕著だが。会衆がなければ結婚はない。
 この場合、神というか超越の原理、村落の原理、性愛の原理(子供という再生産、そういえばマルクス主義でも子供をなすことを再生産で捉えるのだったな)が統合される。これが「結婚」ということだが、これに友愛の原理がどう関わるかが難しい。単純な対立ではないのは、村落の原理が友愛的なものである面がある。
 しかし、ここでの難しさは、友愛、つまりfraternityつまりbrotherhoodに同性愛的な原理性が含まれていることだ。むしろ、超越の原理の側にも含まれていたとも言えるのだ、というか、いわゆるプロ倫はヴェーバーが直感していたようにカトリックのbrotherhoodに根を持っているようだ。なので、その側面からプロテスタントの集団性、村落というものがいわゆる絶対主義時代の社団社会に内在的な対立を持つ。
 まあこのあたり難しいのだけど、むしろ社団社会を絶対主義が覆うことで、王が国家となり市民が形成されることで、社団=社会のなかの構成員の自由が守られるというところで近代国家と市民が形成される。
 ということは、市民というのはfraternityの原理の側の派生であり、その端的な例は同性愛者の社会の包含と子供という社会の再生産の包含になる(子供は国家が引き受ける)。
 PACSはそういう歴史的な背景があり、当初はそうした同性愛を内包する形だったが、自然的な傾向として現在のようなありきたりの結婚制度の再定義になっていく。というか、北欧なども婚外子差別はないのだが、これは国家が成立したことで、実はこれには市民から優生学的な国民へのシフトも含んでいて、本質的にかなり難しい問題がある(つまりアレです)。
 ⇒[書評]優生学と人間社会 ― 生命科学の世紀はどこへ向かうのか(米本昌平、臏島次郎、松原洋子、市野川容孝): 極東ブログ
 面白いのはPACSを生み出すそうしたfraternityの原理に対立し、優生学に歯止めをかけたのがむしろ社団社会的な世界における超越性の原理だった。
 まあ、こうした社会構成は、日本の場合は、常に外来として訪れ、日本の場合の社団的な性格や国家の問題は別の歩みを取る。とはいいながら、日本国憲法はこのfraternityの原理に根を持っている。
 こうした双方の社会史への洞察がないと、いわゆる進歩主義みたいなものはねじれた倒錯にしかなっていかない。単純に正義への希求が、公を幻想するとき、つまり、公の義なるものが、市民に倫理的に語り出すとき、それはとても危険なことになる(差別を排するとしてただ他者を差別するだけの矛盾に陥る、というか国家が憑依する、たいていは特定国家に反対するだけの裏返しの国家主義)。まあ、そのあたりが、若い左派の人にはまるでわからないのはないかなとは思う(少子化「問題」というのは国家という枠が前提になっている一種のナショナリズムなのに気がつかないとか)。ただ、若い人が普通に若い感性を持っているなら、義を語りだしたときのうさんくさい感覚はわかるだろう。それをむしろ払拭するかたちで他者のバッシングにいそしむとすれば、愚かさというよりむしろ心の病というべきだろう。
 
追記
 キリスト教における神と結婚の関係をもっとも根底で規定しているのは、以下。

しかし、天地創造の初めから、『神は人を男と女とに造られた。 それゆえに、人はその父母を離れ、; ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。 だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」(マルコ10:6)

 marriedは「神が合わせられたもの」の語感を持つ。