異論というほどでもないけど、ちょっとコメント

 ⇒マフィアの論理とナショナリズムの原理(正義の実装) - 地を這う難破船
 2点。あまり異論というか批判、非難にとらないでくださいね。
(1)「私にとって信頼の論理とは、マフィアの論理の別名でもある」について私がわからないだけかもしれないけど、私の理解では、マフィアは国家または国家間の寄生であって、国家的な義、つまり、市民を社会から守るという機能はできてない。つまり、マフィアは社会の延長であって、公の義が疎外されていない。
(2)アウシュビッツをジェノサイドと捉えるなら(どうもジェノサイドの基本を理解されていない人は多そうだけど)、

国家においてコーサ・ノストラの範疇と民族の範疇を端的かつ徹底的に一致させたとき、「国民の国民としての正義」の国家を単位とする限界なき――すなわち「国民国家」としての憲法的規定なき――独裁国家において、マフィアの論理が発動したとき、アウシュヴィッツへの一里塚が見出される。冥土の旅の一里塚が。

 修辞がよくわからないのだけど、たとえば、ダルフールで行われているジェノサイド(これはもはやどう見ても実態はジェノサイドでしょう)は、その構図に当てはまっていない。むしろ、私たちの現代世界のアキュートな問題に、東さんもかな、過去や日本の体制を基軸としたナショナリズム考察の射程が届いていない。というか、それがアキュートな世界問題なのだということの思想的な意味が了解されていないように思えます。(ある思想的な「問題(ナショナリズムとか)」がまさに日本の知の水準でのみ問われるという、問題化の擬制装置による日本の知的閉鎖性は実際には現代版のナショナリズムの変奏に過ぎないのではないですかとも思う、アキュートな世界像に届かないし。)
 ダルフール・ジェノサイドについてば、世界構造的には、米日中が結託(グローバルな経済体制)することで実際には中国の資源ナショナリズムを是認しそれが資源国の利権という軸を生成することによって独裁国家を保護する、その反映としてジェノサイドが生まれてしまう。つまり過去のドイツや日本のような特定国家の内発のナショナリズムではなく、現在は世界構造がそうした独裁国家(的ナショナリズム=利権の要請)を周辺に生み出させ、そしてしかも米日中(EUも)が現実にはそのローカライズし封鎖されたジェノサイドを温存する構造にはまっている、というのがアキュートな問題だと思うのですよ。(ダルフールの人々をジェノサイドに追い込んでいるのは国家を介した形での私たち日本人なのですよ。ただ、問題は、その国家の介在性の意味と、その責の了解として日本人が問われるということになるのだろうと思います。)
 
追記

 sk-44さん、応答ありがとう。
 ⇒
マフィアの論理とナショナリズムの原理(正義の実装) - 地を這う難破船
 率直にいうと、半分くらいしかわからなかった。sk-44さんが私のエントリを丁寧に読まれているのはよくわかるのだけど、論旨の展開となる前提のなかにそれが織り込まれていないように私には思えて、私に同意してくださいとはつゆも思わないのだけど、思想の分岐点が見えないままに進んで行かれるなという印象がありました。率直にいうと、日本の現代思想の前提を私は皆目知らないというか気にかけずがいけないのかもしれないけど。
 具体的な部分の一例で言うとこれは応答のほうではないけど。
 ⇒マフィアの論理とナショナリズムの原理(正義の実装) - 地を這う難破船

国家は起源においてマフィアの論理を胚胎しそれを支柱とするがゆえに、ナショナリズムとして現れる国家は無力化されるべき、とする考え方。国家とは起源においてマフィアの論理に対する掣肘として「作為の契機」において構想されたものであり、そうあるべき、ゆえにナショナリズムがマフィアの論理を包摂するものではない、とする考え方。近代国民国家を前提するなら、後者であるけれども、ポスト近代の前提においては、前者となる。すなわち、前者における国家とは極端に言うならローマとその大義に遡るから。

 皮肉なコメントにとらないでほしいのだけど、こういう文章を読むと、私は、「近代国民国家を前提するなら、後者である」でFA(ファイナルアンサー)、終わりと思うのですよ。それとそれは終わったうえで歴史を見ると、前者が「ローマとその大義」というならそれは率直にいうと粗雑すぎる。ローマとは原義では共同財産のことなんです。いわゆる帝国ではないのです。ただその議論の文脈は現状のそれとは関係ないでしょう。
 で、そこでFAしちゃっているので、そこの見直しみたいのがないと、私はうまく理解できないのです。
 今回の応答部分では。
 ⇒finalventさんへの返信 - 地を這う難破船

「個人の価値の、つまり友人とかの選択とか、情報の選択という場合の信頼性というのと、国家=公、の信頼性とは別」と考えるか、そうでないと考えるか。私は、そうでない、ということがありうると考えるのです。梅田望夫氏が指し示すようなGoogleやWikipediaの時代において、決定的に「別」となりうる、という認識的な前提に、私は同意します。が。再び引用させていただきます。

 まず、「梅田望夫氏が指し示すようなGoogleやWikipediaの時代」の限定性は単純に理解できないのです。これは、単純に市民革命後の近代という時代の前提ではないの?と思っているくらいなのです。
 次に、近代国家の前提であれば、そうではないことは近代国家の否定ではないの。でも、近代国家の前提の上で、失礼な言い方だけど、安閑と意識されず議論されている部分が多いと思います(私も安閑しているけど、でも私は意識的に)。
 信頼(trust)というのは、社会=マフィア的共同体を含め、そこから国家=公=公の義、が成立するために、公に向けて、構成員から委託(trust)されたものとして成立する。それが、市民契約ということです。
 だから、国家の委託性、そしてその委託に依拠したがゆえの公の義が、市民を社会=マフィア的共同体、から守るということが、よく理解されていない人が多いように、私から見えます。
 別の言い方をすれば、友愛の原理がまさに原理として多様な利害の調停性を是認する部分にまで疎外されたときtrust(信頼=委託)として国家が成立する。その意味で、友愛が遠隔=疎外化される契機が必要になる。
 最初から国家の信頼=委託を抜きに、社会をべたに延長すれば、社会内の信頼のグレーディングになってしまう。でも、市民社会・近代国家というのはそういうものを疎外=超克して成立したわけですよ。
 ちょっと言い方がきついかもしれないけど、むしろそうした社会内の信頼のグレーディングが問題として、つまり問題偽装として問われるところが、実際には現在のナショナリズムとして機能してしまうのです。
 そうではなく、私たちはむしろ、私たちというのは日本国憲法のように世界平和理念を内包した特殊な市民契約をもった国民は、国民の公の義として、その世界にむけてどれだけ、平和を実践できるかそこに存立が問われるわけですし、問題化されるべきは、そうした外界と日本を隔絶する信頼のグレーディングではなく、日本国家が機能しうる最低綱領としての国家の信頼=委託を再確認することではないでしょうか。