可聴音の比喩で可思考領域というか

 人間原理についてぼんやり考えていて、いずれにせよ宇宙定数みたいな偶然ではないよなという定数があるとしても、それ自体が人間が存在していることを前提にすれば別段不思議ではない。そうでなければ人間は存在しえなかったわけだし、というだけ。
 ただ、この問題はそう簡単に片付くわけでもないだろう。
 ファインマンだったか量子力学を「理解」している人はいないだろうみたいなことを言っていたか。もちろん、量子力学というのは数式で表現できるのだから、それは理解を表現したものなので、よって理解している人はいる。まあ、それはそうだが、ベル不等式が示す意味というのは、理解を超えると言っていいだろう。まあ、普通に。
 同様にというのは曖昧だが、基本的に人間が理解する限定というのはあるだろう。可聴音の比喩で可思考領域というか。
 というか、この場合、理解とはなにかということになる。
 最近はどうか知らないが、私が若い頃、量子論理というのがあった。論理学の量子じゃなくて、量子力学の現象を記述するための論理公理、といったものだった。
 そうでなくても、排中律とかは、その可思考領域に関係しているかもしれない。
 話がおちゃらけになるが。
 たいして英語ができるわけではないが、英語を聞いて理解している脳と日本語の脳の働きはどうも違っている(同じ部分はあるにせよ)。で、いわゆる逐語訳でなく即座に理解しているときは、どういう理解のプロセスを取っているのかそのピヴォットの形態がよくわからない。デイヴィッドソンだったか、翻訳できる、イコール理解、みたいには、案外いかないんじゃないか。
 この場合の、非言語的言語というか、プレ言語的な意味の保持の状態というのは、可思考領域を少しはみ出しているというか、脳自体は、排中律をかけない意識がありそうだし、意識そのものが排中律的に存在しているというか、そもそも独我がそういう存在なのだろう。
 人間の脳は、他の動物に比べて進化論的に発達したメリットというか、よって、考えようによっては、他の動物は比喩的に理解しやすいというか、人間の意識にマップ可能なのだろう。
 人間以上の知的存在となるとそのマッピングは効かない、という以前に、人間以上の知性というのも、実はよく理解できない。
 
 杜撰な発想だが。思考というのはそれほど知覚・認知と離れたものでもないのだろう。人間以上の知性・思考というとき、現人間からはその速度差くらいしか理解しづらい(コンピューターやネットで知性がブーストされても質的なものではないだろう)。が、それはそういう量的な差異ではなく、質的であり、結局は知覚・認識の質的な差異を示すのだろう。広義に言えば、人間原理で見える宇宙とういのは我々の知覚・認識の限界そのものなのだろう。
 
追記
 ちょっと補足的⇒http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20081025/1224936379#c1224980178