まあこの手の領域はそれなりの手順で論文でも書くべきなんだろうけど

 ⇒極東ブログ: 機械は意識を持つか。コンピューターは意識を持つか。インターネットは意識を持つか。
 とはいえ、大森哲学は国際的にはナンセンスに近いのでそれをベースに議論をしてもしかたないだろう。ただ、大森を読むようになって30年経つがまったく古いと感じない。恐ろしいものがある。彼がやり残した、量子力学とゼノンパラドックスの問題も解きたいと一時期は思ったが、まあ、私にはできそうにない。ただ、だいたい大筋はわかった。ブログにさらっと書いてみたい気もするが、まあそんな気力でも出てきたらというか、しないか。
 ロボットの意識の問題も、基本的は、後期大森では他我論に吸着されるようでいながら、その射程の可能性には、生命と自然と人との関わり・対応、というものの、知識工学的な、いわばグーグル的な世界への想像力による洞察が含まれていたのだと、あらためて大森のすごさを思った。
 私はぼんやりと、人工知能論が失敗したのは、(1)チョムスキーのように超越項を想定したくないから、(2)生命的なアプローチをとらないからだ、と思っていた。
 つまり、メタ認知の論理計算機(オントロギーと様相論理のエンジンを含んだようなもの)と生命的なドライブモデルとそれに付随するアフォーダンス、というわけだ。
 今回久々に考えなおして、その戦略は矛盾していると思うようになった。思索転換というわけではないが、その2つは切り離すべきだろう。
 欧米的というか人工知能学者もおそらくこの2つをごっちゃにしているだろうと思う。というかそのアマルガムが一番成果が出やすいし、実用に近いかもしれない。音声認識マシンがごりごりで擬似的に動いているようもの(動くからこれで人間の音声認識もそうなんだ議論すら出そうな)。言語については福井直樹もゲーム理論とか言っているし。
 しかし、(1)は応用は別としてむしろ現段階の人類の知性の状態では、むしろ洗練されたモデルを作成すべきだと思う。もっと言えば、オントロギーを抜いたUGを計算機モデルにすべきだと思うが、はて、という感じだ。どうも昨今の学会の雰囲気を見ると結局意味論というかオントロギー的なものに流れている臭い。
 (2)については今回のエントリで指摘したが(たぶん読まれてないのだろうなと思うが)、人間の欲望の像としてロボットの問題だ。これは日本にリアルキチガーイがいたらインプルメントしてくれるんじゃないだろうか。ま、超超超エロゲーみたいに。