朝日社説 教育基本計画―中教審はどうしたのか : asahi.com:朝日新聞社説
教育問題には関心がない。が、読んでふと気になった。
教育現場が抱える課題は多い。とくに深刻なのは学力低下問題だ。学力格差をどう縮めるか。考える力をどう育むのか。そのためには、教師の数や質の向上が欠かせない。
学力低下は問題だろうか? 学力格差? 私が気になるのはむしろ20代後半からの自己学習だろうと思う。それはそれとして。
だから、この答申で最も注目されたのは、教員を増やすなど予算のかかる措置が具体的にどう描かれるかだった。日本の教育への公的支出の割合は、先進国のなかでも低い。教育への投資は、日本の教育を底上げするには避けて通れない課題である。
ところが驚いたことに、答申には具体的な提言が見あたらないのだ。
教育への投資が低いことは確かだし、そこを改革しなければならないのも確かだが、その基軸が学力低下・格差であってよいのだろうか。朝日新聞はそんなことを考えていたのか。
公的支出を教育分野に増やせばいいというのはまずその教育分野の実態とプランのなかでどのように経費が必要になるかが問われる。
そして教育の名のもとに国家を膨らませていくのは基本的には賛成できない。公教育は地域に還元すべきだし、地域の中からの創発を待つしかないのではないか。
曇り、ログイン
このところ1時間くらいじっと静かに瞑想していられる時間が心の避難所のように思えてくる。意識的には大きな危機はないし、ごくごく平凡に時は流れ、私の存在はかすれるように消えていくのだろうし、そのことになんの不安もない。ネットはそのなかであまり大きな意味を持たない。どこかで自分の表現であったネットの場が、どことなく強いられたもののようにも感じるのは、具体的なネット上の人の関係というより、人々の関心というものの違和感だろう。たとえば靖国神社など私はまるで関心がない。中国や日本の動向についても、本当ところ関心ないのだと問われればないとも言える。そんな感じだ。
反面、美についてはよりクリアになる部分とそこへのねじれたような渇望があってもどかしい。この点については若さというものへの羨望はあるのかもしれないと思った。実際にそうした日々においてそれは直接的な苦悩でしかなかったのに。
夢は覚えていない。日銀が出てきたような気がする。物思いに沈んでいるうちに忘れた。音楽を聴こうかと思って奇妙に不愉快になって目覚める。今日は土曜日であった。
次はスター導入?
エントリベースにデザインをリニューアルしたら、コメントとぶくまが同じような位置になるのでぶくまの便宜も付加した。率直にいうと何userがぶくましているなんていう情報は僕には関係ないよと思っていたのだけど、エントリベースのデザインだとコメント数が表示されるのと何が違うということになるわけだ。
で、次はスター導入? それはどうなんだろ以前に、私がスターを理解していない。
このところのはてなのいろいろな新機軸はよくわからないものがある。ハイクとか最初は興味本位に書いてみたけどダイアリーとの連携がとれないのでやめた。
AdSenseは試したけどうまくいかない。また試みるかも。AdSenseもうざいといえばうざいけど、RSS配信には含まれないんじゃないかな。どうだろか。
なんとかが曰く的
先日のこれ⇒「多宇宙と輪廻転生―人間原理のパラドクス(三浦俊彦)」読んだよ - finalventの日記
で、分析哲学のある部分は、きちんとヴィトゲンシュタイン以降も続いているんだなと思ったし、そのあたりの先端の議論はどうなんだろう、三浦のいうように人間原理なんだろうかとちと思った。哲学は嫌いではないが、派は所属していたこともないし、主要学会もわからない。
そういえば日本人というか若い哲学好きの人たちというべきか、ヴィトゲンシュタインが最先端みたいに思っている人あるいはそこに大きな真理があるとか思っている人がいるみたいだけど、たしかヴィトゲンシュタインはポパーに論破されちゃったんじゃなかったか。で、ポパーは3つの実在論とかいってエックルズなんか面白い?議論をするし、80年代には翻訳とかもあったんだけど、あのあたりって日本でフォローされている風はない。
ポパーというとすぐ反証可能性とか出てくるけど、たしかポパー自身もクーンやファイヤアーベント(そういえば彼はポパーの弟子か)の影響を受けて晩年のポパーはちょっと違った考えになっている。
でと。
ネットかあるいは新書とか新聞でもそうか、なんとかが曰く的的に権威的に語られるパターンってあって、マルクスとかレーニンとか、ハイエクなんかもそうかな。率直にいうとマルクスってかなり古い人なんでエンゲルスと一緒に「科学」とかこいても現代の科学ではないし、なんつうのかそれなりに優れた思想家でも時代の制約はある。あまり言われてないけど、プラトンなんかいちおう哲学者だけどべたに読めばオカルトでしょ、ありゃ。
チベット仏教というか天台というか
もろたコメントより⇒極東ブログ: チベット的癒しの話
今のチベットとチベットの人たちにとっては、天台智者大師と賢首大師の教えどころではないと思うのですが、今後のチベットと日本のあり方(それは中国と日本のあり方でもあるのですが)を考えると、チベットでの天台智者大師、賢首大師、慈恩大師の教えの受容の仕方の各論の概略がとても気になるのです。
私も詳しくないけど、似たような疑問を持ったことがあるのでちょっと。
天台は、私の誤解かもしれないけど、それまで大乗仏教を、ある意味で国家的に統制しやすくするとも言えるのだけど、五時八教的な統合をした点に意義があると思う。その意味で、天台宗というのは、後の宗派概念ではないと思う。さらにいうと天台的な考えは今日的な意味での宗教とも違うだろう。これは日本の天台宗でも同じ。
問題はというか、こうして統合されるということは、朱子学でも類似なのだけど、道教的なコスモロジーとローカルな俗習が混じることになる。
で、チベットでの天台的な部分だけど、天台を構成する基礎的な大乗学はゲルクなどに統合されている。起信論などもきちんと学ばれているようだ。そしてその上に、密教的な部分の発展があると見ていいと思う。このあたり、派によって違う部分もあるし、日本で知られているチベット仏教は中沢新一とかへんてこな感じに入っているけど、意外とゲルク派は正統。
ダライラマという人はこうした分野の学識が実はきちんとあって、いわゆる活仏だから偉いというより西洋の仏教学者にとってはまさに先生としかいえない知的レベルにある。
ざっくりいうと、チベット仏教において天台的な統合はそれ以前の大乗学がしっかりしていることで内包されていると見ていいと思う。
ダライラマと心の平和
ダライラマが偉いなと思うことはいろいろあるのだが、彼は、今回の件で、泣きたくなるような気持ちもなるが、それでも瞑想して心の平穏を保つと言っていた。
日本人のチベットシンパというかいろいろあるのだろうけど、はてな経由でYouTubeかなんかでちらみしたけど、今回の争乱の関係で坊さんが泣いていた。あれとダライラマはすごく違う。ダライラマはあの惨事を認識しつつ、心の平穏を保ち、「よく眠れる」とまでいう。
彼の心のなかに仏教の平和というものがあるのだろうし、そのあたりにすごいものを感じる。
日本の仏教とチベットの仏教とかいろいろいわれるけど、日本でいう心の平穏みたいなのと、坊さんでも泣いちゃうっていうのはなんなんだろうかとは思う。
非難しているわけではないよ。
ありがちな増田
軽い気持ちで念押しに言った一言で、あんたは妻の私を信用していないのか、信じられない、別れる、などと水をひっかけられたナトリウムのごとく炎上するのだが、以前でこそこんなことで別れられてはたまらないと、慌てて取り繕ったりなだめたりしてみたものの、概ねそれは逆効果であることがわかりつつある。だいたい自分でも納得しきれないことを謝る、というのはどうしても不自然な謝り方になるので、最終的には無意味だったりする。
渦中にいるとつらいと思いますよ。
個人的にはこれがためになるとは思うけど、解決するとも思えないし、意外と読みづらい本だし。
これね⇒Amazon.co.jp: 2日で人生が変わる「箱」の法則: アービンジャー・インスティチュート,門田 美鈴: 本
関連⇒極東ブログ: [書評]2日で人生が変わる「箱」の法則(アービンジャー・インスティチュート)
おまえだろとか言われそうだけど
ある分野で優れていても他分野ではごく基礎的な知識が欠落している人が偉そうっぽく語っちゃうっていうのはどうなんだろとかちょっと思った。いやそれはそれでいいんだろうなというか、おまえだろとか言われそうだけど。
まあ、いいか。いいや。よしっ!