日経 春秋(3/17)

 夜を徹して人生を語り合い、哲学書や歴史書に没頭する。戦前の旧制高校に息づいた教養主義の精神と文化は、昭和40年代の大学紛争時に解体された。社会学者の竹内洋関西大教授はそう指摘している(『学歴貴族の栄光と挫折』)。▼これが跡形もなく消え去ったのは後のバブル期だろう。若者は人間と社会に深く思いを巡らすよりも目に見える名利を追い、世間もまた、それを許した。きのう実刑判決を受けたホリエモンの言行をたどると、1度は東大にまで学んだこの受験秀才に欠けていたのも、まさしく「教養」ではなかったかと痛感する。

 とほほ。

日経社説 実刑判決だけでは量れぬ堀江被告の「罪」

 「成長性の高い有望な企業の姿を装い、投資判断を大きく誤らせ多くの市井の投資者に資金を拠出させ、その犠牲の上に立って、企業利益のみを追求した犯罪で、中心的な役割を担った」のだから、証券取引法違反罪では異例の実刑も当然である。

 「中心」がホリエモンであった、と、「当然である」、と。

読売社説 [堀江被告実刑]「金銭至上主義が断罪された」

 1審は半年余りで終了した。大型経済事件としては異例の速さだ。控訴審にも同様のスピード審理を期待したい。

 ほぉ。
 いや、ほぉ、じゃなねーな、ひでぇ社会になったもんだ。リクルート事件の時代のほうがまだマシだったか。

朝日社説 都知事選―情報公開を競い合え

 これが普通の自治体ならそうだろう。

 2期目の公約の目玉に掲げた新銀行東京は、累積赤字が増え続けている。都が1000億円を出資しているにもかかわらず、その実態は見えにくい。

 まあ、実際上の石原失政に見えるのはそのあたりかもしれないが、それも小さいことのように思える。これから予想される都の膨大な収入をどうこなすのかという点で、「情報公開を競い合え」ではないでしょ。東京都というのがすでに事実上の国家なのだし。

朝日社説 堀江被告実刑―断罪された「錬金術」

 朝日はこの問題の論調に変化があるのでどうかなと思ったが、まあ、こんなところでしょう。

 判決は証言の信用性を認めたが、「前取締役らが私的に使ったことが強く疑われ、被告が検察側に不公平感を抱くのも理解できないわけではない」とも述べている。不透明な印象はぬぐえない。控訴審でさらに解明してもらいたい。

 真相究明というスキームになるのかわからない感じはする。ある意味で、終わった感はあるし。

ムネオが斬る

 ⇒ムネオ日記2007年3月16日(金) : 鈴木宗男ランド ブログ by宗援会 宗男日記から

 ライブドア前社長の堀江貴文氏への一審判決が出た。検察側求刑が4年であったので、実刑の判決が出るというのが一般的な見方であった。検察の求刑が3年以下なら執行猶予、4年以上なら概(おおむ)ね実刑判決。型にはまった官僚的な判断になっている。
 正直に自分の記憶に基づき、真実を主張すれば「反省の情なし」と今回も言われているが、私の一審判決でも「反省の情皆無」と裁判長は言っていた。正しいことを、真実を言うと反省の情なしと言われるのでは、何のための神聖な法廷かと考える。是非とも国民一人一人が他人事(ひとごと)と思わずに、今の裁判は検察の調書主義、検察のシナリオ・ストーリーによって事件が作られ、検察の腹一つで人の一生が変わってしまうことをよく考えて頂きたい。国家権力が意図的、恣意的に一方的な頭づくりをし、密告や改ざんされた文書等に基づいて間違った捜査をされると大変なことになることを、是非とも国民の皆さんに知ってもらいたい。
 堀江氏の判決でも、部下だった熊谷史人氏、宮内亮治氏の証言が大きな裏付けになっているが、彼らが正しいことをしていたのか。彼らも逮捕され、被告人である以上、自分のことをまず考えると、堀江氏に不利な話をしてしまうことになる。検察はその辺を誘導しながら調書をつくり、尋問する。熊谷氏、宮内氏らが本当のことを言っているのかどうか。自分の立場を良くするためには自分の為になることしか言っていないはずだ。このこともよく考えなくてはならない。

ホリエモン実刑の整理

 このあたりがきちんとしているのでは。
 ⇒元検弁護士のつぶやき: ライブドア事件、堀江被告に実刑判決

 主観面での主要な争点は、いうまでもなく共謀です。
 ひらったく言いますと、堀江被告は本件の決算処理の内容を知っていたかどうかです。
 つまり、認識の有無です。

 ええ、そうでしょう。

 言い換えれば、検察は、宮内被告らの共謀の存在を示す直接的な証言以外の証拠によって、
 「堀江被告が知らないわけないじゃん。当然知ってなきゃおかしいよ。」
 という心証を裁判官に得させることに成功していたものと思われます。

 となりますね。

だからこそ、弁護人が宮内被告の横領事実を検察がもみ消して堀江被告に有利に証言させたという主張に対しても、裁判所は横領もみ消しの可能性を認めつつも宮内被告の証言の信用性を維持したものと想像されます。
 判決は電子メールの内容を宮内被告の証言の信用性の支えとして指摘していますが、メールの内容がどの程度決定的なものであったかは疑問です。

 というわけで、そのあたりが最高裁で問われるか。
 そのころ、世間的にはすべて終わっているかもですが。

買売春の問題は問いつめると難しい

 社会的な問題、制度的な問題は、それなりの理路があるので、そう難しいわけではない。
 単的に、「おめー、どうよ?」と問われたとき、どう答えるかということになる。
 難しいのは、答えることはできるとして、どの場で語るかということになる。
 で、「おめー、どうよ?」。
 私は、この問題から逃げてきた。
 それを卑怯と言われるかわからないが、その舌で言うなら、逃げられるなら逃げなさい。逃げられないなら……? 私はその人間に断罪なく深い関心を持つ。
 というのも、逃げのトーンではあるが。

 こうした「性」の問題は、ある意味で強い人間だけが問える、あるいは、弱い人間はその問題のなかで摩滅する。実際は、「性」の問題がのしかかっても耐えられる人間はそうはいない。問えるだけの強者にはそれを問う意味もあるのかもしれない。

 逃げついでいうなら、人生の悲惨は多様で、難しい買売春をスルーさせちゃうくらいものがある。そういう場合はただスルーして人生が終わる。

やさいは

 増田⇒やさいは

いためたり・にたりするとおいしいよ。

 野菜というのも本当は動物や人間に食べられたくないので、自己防衛のために毒をもっている。なので、調理して食う=毒抜きが原則になる。
 まあ、毒が経るようにさまざまなローテクで遺伝子操作したのが今の野菜なんで、そのローテクの知恵で食っているならどうということはない。
 ついでにいうと、いためたり・にたり、もだけど、やいたり・むしたりもおいしいよ。
 野菜というのはうまみを出すのに調理時間がとても難しい。短時間の場合もあるけど、けっこう長時間の場合もある。芋とかは大きさにもよるけど、小一時間かかる。
 先日新タマネギをじっくり焼いたが、甘くて、うまかった。

尊敬する人はというので少年時代に

 というか高校受験のころ。
 私の答えは、ジークムント・フロイト(Sigmund Freud)。
 友達が唖然として、「それ、言わないほうがいいよ」と言った。
 フロイトは今でも尊敬している。
 一番というわけでもないが。
 今尊敬している人……著述家関連は、ま、以前書いた。
 率直にいうと、「尊敬」という感覚は少し変わってきた。どう老年を生きるかというモデルを探るというけっこうプラクティカルな感じはある。

50歳目前に思う教育っていうか

 私は結局学問的には大成しなかったが、30歳くらいまではけっこうアカデミックに勉強していた。けっこうというのはいろいろ含みがあり、単純にいえば、25歳以降は自由に好き勝手な勉強というか関心の探求が増えた。
 それがいろいろあって30代前半には学究的な領域からは離れた。
 こういう言いかたもなんだが、ただ、勉強癖みたいのだけが残った。私を比較的よく知る人は、またなんか勉強してんの?とか言う。ま、ほかにたいした趣味もない。
 知識というのは、そのフレームワークが時代とともに変わる。アカデミックな領域もけっこう流行というのがある云々。で、知識というのは時代とともに廃れる。新刊書と似ている。あと、酒とかいわゆる男の趣味みたいのは、時代とともに腐る。ブログなんかで男の趣味みたいなものを披瀝している人はその腐臭に気が付かないのだろう。
 50歳目前に思うのは、教育のなかで、何が残ったかな、と。
 語学は残る。もちろん、衰えるけど。
 文学は残る。文学にもよるけど。
 漢籍・古典は残る。これに突入するほどではないけど。
 文献学は残る。これはちと難しい。
 数学・科学知識は微妙。数学など時代に影響されないかのようだけど、うまく言えないがそうでもない。
 科学知識はまさに時代で変わる。
 単的に言って、聖書は残る。私の人生はたまたまよく聖書を読む人生であった。が、これは人にもよるのだろう。私の場合はキリスト教信仰には結びつかないせいもあるだろう。
 ハイテク技術みたいなものは、まるで残らない。むしろ、忘れていくほうがいい。
 ほかに?
 身の回りのこと、料理、掃除、みたいな、あるいはお金の扱い方、これらは、生きていく基本なんだが、なかなか本とかでは学べない。でも、これは確実に残る。
 音楽のテイストも基礎が必要になる。これは人生を生きる愉しみとかの部類。
 ダンスとか身体的なもの、スポーツもかな、これはものによりけり。水泳とかきちんとフォームができてると楽しい。
 ま、若い人っていうか30代ちょいくらいの人に教訓的に言えそうなのは、語学と古典かなというつまんないことになりそうだ。でも、50歳くらいまで長持ちするようには思う。

たった3秒でやめられるチベット式呼吸瞑想法

 ⇒はてなブックマーク - たった3分でできるチベット式呼吸瞑想法 (手帳2.0)
 ま、この程度なら害はないけど。
 ちなみに、いろいろな呼吸法はあるけど、アイアンガーヨガでは腹式はない。

cover
ヨガ呼吸・瞑想百科: B.K.S. アイアンガー,B.K.S. Iyengar,沖 正弘,玉木 瑞枝,後藤 南海雄

「ホリエモン実刑判決。そして、情報ビジネスでは大変な事が起こっている」というエントリのはてブでは変な事が起こっている

 これ⇒はてなブックマーク - ホリエモン実刑判決。そして、情報ビジネスでは大変な事が起こっている。
 これも⇒はてなブックマーク - 拾得ブログ ネットビジネスに大変革が・・

自殺する前に読みたい本10冊

 inspired by ⇒たけくまメモ : そろそろここもリニューアルを

「自殺する前に読みたい本10冊」とか、そんな感じで紹介していきたいなーと思ってます。

 思いつくまま。

  1. 「 飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ―若き医師が死の直前まで綴った愛の手記: 井村 和清」
  2. 「 なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記: H.S.クシュナー,斎藤 武」
  3. 「 失敗の中にノウハウあり―金儲けの神様が儲けそこなった話: 邱 永漢」
  4. 「 芸者―苦闘の半生涯: 増田 小夜」
  5. 「 がんから始まる: 岸本 葉子」
  6. 「 人生を“半分”降りる―哲学的生き方のすすめ: 中島 義道」
  7. 「 尻啖え孫市: 司馬 遼太郎」
  8. 「 死ぬことと見つけたり〈上〉: 隆 慶一郎」「 死ぬことと見つけたり〈下〉: 隆 慶一郎」
  9. 「 孫子: 海音寺 潮五郎」
  10. 「 虚空遍歴 (上巻): 山本 周五郎」「 虚空遍歴 (下巻): 山本 周五郎」

クロ現 “北朝鮮脱出” 日本人妻たちの訴え(3月13日(火)放送)見たよ

 ⇒クローズアップ現代 放送記録

1959(昭和34)年に始まり、およそ9万3000人の在日の人や日本人妻の運命を左右した北朝鮮への「帰国運動」。海を渡った人々の実態がいま、北朝鮮から脱出した日本人妻や在日社会の側から語られ始めている。

 語られた内容は壮絶だった。

グルジェフィアン

 ウィキペディアにも載るようになったのか。ちょっと驚き。
 ⇒ゲオルギィ・イワノヴィッチ・グルジェフ - Wikipedia
 よく書けていると思うし、そう大きな間違いはないけど(憶測が多いのはしかたがない)、全体としては、たぶん、これはグルジェフの説明に全然なっていない。
 という言い方は書かれたかたはむっとされるか、おめーのほうがわかってないとかなるかもしれない。
 ただ、たぶん、ある一定以上、グルジェフに理解のある人なら同じような感想を持つだろうと思う。
 で、問題は、そのある一定以上理解のある人である種の共通した認識が得られるかというと難しい。
 関連リンクで見ると、これはすごいな。
 これ⇒Gudjieff Archive & Resources in Japanese
 でも、私はこうしたすごさにのめりこむことはないだろうと思う。グルジェフを卒業したわけではない。私なりのグルジェフの理解が今の私の存在を導いており、その存在に変化なくして、知識は空しいからだ。
 で、ま、ちょっと言うと、ウスペンスキーを全て捨てなさい。
 グルジェフに関心があるなら、この一冊だけを読みなさい、と思う。
 ⇒「 魁偉の残像 グルジェフと暮らした少年時代: 本: フリッツ・ピータース (著),前田 樹子 (訳)」
 でも、すごいプレミアになっているなぁと思う。
 この一冊を読み、ピータースの思いというか彼のグルジェフへの愛がわかってから、もういちど、ウィキペディアグルジェフの項目を読まれると、たぶん、私が何を考えているかわかってもらえるかもしれない……って気取るわけでもないけど。
 まあ、普通の人はグルジェフなんてものに関心を持たないほうがいいようにも思う。
 でもしいてもう一冊読むのなら。
 ⇒「 グルジェフと共に: 本」
 グルジェフの音楽は、グルジェフィアンにはすばらしいものだが、普通の人がきいてもなにかしら、喚起されるものはある。ある憧れのようななにかだ。その憧れの感触のなかにグルジェフへの憧憬の原型を持ち、知識は捨てるほうがいいと思うがやや蛇足。vol.2だけでいい。

cover
Reading of a Sacred Book: The Complete Piano Music of Georges I. Gurdjieff and Thomas de Hartmann, Vol. 2: 音楽: Georges / de Hartmann, Thomas Gurdjieff,Cecil Lytle

ついでにシュタイナーについて

 なんだかコリン・ウイルソンみたくなってきたが。
 シュタイナーという人自身は、自身と一般の人との関わりをよくわかっていた。だから、そう混乱をもたらすようなことを一般向けには言わない。
 で、いわゆるシュタイナー教育だが、実際にシュタイナーの原点に即していけば、霊だとか転生だとかあの気持ち悪いジャンクスは含まれていない。ただ、西洋芸術(プラス、イスラム)の本質的なものだけがきれいに、体得できるようになっているので、そうした芸術のあるなにかを体のなかに写し取るようにして、そこからシュタイナーという芸術家をその作品的に理解していけばいいのだろうと思う。
 単純にいえば、オイリュトミーだし、そこには、フォルメンが含まれる。
 それ以上の議論はどうしても上滑りになる。

ついでにクリシュナムルティについて

 クリシュナムルティの愛読者はそれなりに多い。みんな勝手に読んでいる。私もその一人以上のものはない。その限定で言うのだけど、クリシュナムルティを理解するときに一番大切なことは彼を聖人と見ないこと。普通の人。彼の教えを学ぶときの、逆説的に重要なことは、「私がいなかったらみなさんはどう学びますか?」。つまり、クリシュナムルティという人は不要だということ。
 で、さらに逆説的に、だから、クリシュナムルティという人に関心があるなら、ルーチェンスの伝記とか読まずに、これを読んだほうがいい。
 ⇒「 キッチン日記―J.クリシュナムルティとの1001回のランチ: 本: マイケル クローネン,Michael Krohnen,高橋 重敏」
 
追記
 これもウィキペディアの項目があった。へぇ。
 で。
 ⇒クリシュナムルティの思想 : ジッドゥ・クリシュナムルティ - Wikipedia

クリシュナムルティの思想の中心となる主題はあるがままの認識である。クリシュナムルティにとって「あるがまま」とは、実在、真理、神、愛、自由、無限、永遠、創造などと同義語である。その対極として闘争、矛盾、恐怖、欲望、習慣、努力、自我、観念などが挙げられる。後者が前者(真理)と対極になるのは、それらがあるべきもの(観念)を求める精神の働きであり、あるがままのものの認識からの逃避であるからにほかならない。

 これはクリシュナムルティ理解としてはすごく間違っている。「あるがまま」が「闘争、矛盾、恐怖、欲望、習慣、努力、自我」で、そうした、「あるがまま」を覆い隠すために、「真理、神、愛、自由、永遠」といった観念を思考が作り出す。というか、この説明でずらずらならんだ概念の扱いがぞんざい。クリシュナムルティはもうすこし丁寧に個々の概念を扱う。
 でも、ま、どうでもいいやと思う。そんなことはそれほど重要なことではないし。

この世界に、この宇宙に、神秘的な何かがあるのかもしれないけど、多分、私には関係ない

 そして多分多くの人の人生にも関係ない。
 スピリチュアルなものなんて何もない。
 人生の理不尽なできごとになんとか理屈(物語)をつけたいけど、普通の理路というか常識ではつかないから、へんてこな公理を持ち出しているのがスピリチュアル。
 でも、そんなものはない。
 精神的な修行とかしても、どこにも到達しない。
 ピアノとか具体的な物の練習したほうがなんぼかまし
 人生というのはうまく説明できない不合理な出来事の累積だし、自分の日常行動の混乱と同じ。
 ただ、人の心というのは不思議なものだという不思議さがそういうがらくたを誘惑するのは、しかたない面がある。