夢みたいな夢じゃないような

 以前もちょろっと書いたが変数は型(タイプ)なんてないほうがいいというか、型を意識して物を考えさせられるのは苦痛だ。人間は物に対して型なんて考えない。それが自然だ、と。
 それは今でも基本的に変わらないのだが。
 が、人間の思考というのは、OOP的なんだろうか?
 ところで、型(type)というのは、実は、クラス(Class)であり、クラスというのは、イデアだ。プラト二ズムというか、ようするにこれは形而上学的な一つの世界観の表明であり、プログラミングというのはある種の世界観の表明である……一面で。
 人間の思考はどこまでが計算なのだろうか。言語は計算だろうか。計算は自然数に起源を持つのか? そのあたりは、生得だとして、生得能力は実際には何を意味しているのか? というか、これもまたただのイデア論であり循環論ではなかったか。
 ちなみに⇒Haskell - Wikipedia

let { fac 0 = 1; fac n | n > 0 = n * fac (n-1) }
 
 階乗を単一の条件による終端を伴う再帰的関数として表現している。これは数学の教科書でみられる階乗の表現に似ている。haskellコードの大半は、その簡潔さと構文において基本的な数学的記法と似通っている。
 階乗関数に示されている1行目は任意であり、この関数の型を示す。これは「関数fac(fac)はIntegerからIntegerへ(Integer -> Integer)の型を持つ(::)」と読める。これは整数を引数としてとり、別の整数を返す。もしプログラマが型注釈を与えない場合、この定義の型は自動的に推測される。

 ポイントはこうした思考のなかで、「この定義の型は自動的に推測される」という点だ。
 ま、そういうあたり。
 で、夢みたいな夢じゃないようなで考えていたというか思っていたのだが。
 じゃあ、Javaみたいな言語から変数の型を抜くということができるか?
 っていうと、クラス自体が変数の型と同じような意味合いを持っているので、つまり、それはむちゃだな。クラスベースの計算体系というは必然的に型を要求するし、つまり、しかたないのだ。
 つうわけで、OOPというとき、この型とクラスの問題と、メッセージというのは、どうもまるで違うわけか。
 ⇒オブジェクト指向 - Wikipedia

 オブジェクト指向分析や設計に基づいてシステムを実際に開発する際には、オブジェクト指向言語を用いる必要は必ずしもない。ただし、オブジェクト指向によるシステム分析結果を実装するには、プログラム構造とのセマンティクスギャップが少ないオブジェクト指向言語を用いるのが普通である。
 なおオブジェクトという用語は時に「もの」という直訳語で認識される場合があるが、英語objectには「目的語」、または「目的となる対象物」という意味がある。従ってオブジェクト指向は本来「述語(機能)よりもその対象を中心に据える」というニュアンスをもつ用語である。

 つまり、そのセマンティクスなんだろうな。
 というわけで、プラトンじゃないアリストテレスはとふと夢のなかで考え続ける。
 ⇒Aristotle - Wikipedia, the free encyclopedia

Aristotle defines his philosophy in terms of essence, saying that philosophy is "the science of the universal essence of that which is actual". Plato had defined it as the "science of the idea", meaning by idea what we should call the unconditional basis of phenomena. Both pupil and master regard philosophy as concerned with the universal; Aristotle, however, finds the universal in particular things, and called it the essence of things, while Plato finds that the universal exists apart from particular things, and is related to them as their prototype or exemplar.

 ここで、prototype or exemplar が出てくるのはむしろ当たり前のことなんだろう。
 どうも計算機科学の基本にこれらのジャーゴンスキーマがしこたま入っているようだが、誰か整理した人はいないのだろうか。

 日本の哲学では、プラトンイデアに対して、アリストテレスのエイドス、とかいうのだが、エイドスは、eidosであり、つまり、これはイデアでしょ。そして、これに対して、ヒュレーがある。
 で、ヒュレーというのは、訳語としては、質料。エイドスが形相。
 ああ、そうか。
 ヒュレーの前に、エイドスというのは、アリストテレスは、むしろ、生物の種の概念で捉えていた。ってことは、これこそ、べたに、クラスってやつか。プラトニズムというよりもだ。
 っていうか、インスタンス(instance)というのは語感としては生物学でいう個体だろ。
 ヒュレーに戻ると。
 ヒュレーというのは、「生成作用において素材となり、エイドスの規定を受けて現実的なものとなる」というわけで、むしろこっちがベタにクラスか。
 ヒュレー(hyle)はラテン語では、materia、つまり、materialだ。材料だな。その意味で、クラス=アイデアがあれ、それがマテリアルとしてインスタンスとして存在する。これは、OOPなんかの考えとは違う。OOPには属性とかあるが、マテリアルというのはない。ポリモーフィズムとかでもマテリアルの問題ではない。
 ところで、ヒュレーは、フッサールでは、「意識において実的な意味構成の質料となる契機」としていたわけで、そのあたり、フッサールアリストテレスというのはどういう関係だったのだろうか?
 ま、ようするに、スコラをきちんと勉強しないとアカンのかも。
 つうか、もっとも基礎的なところで、OOPを私が理解していないか、OOPに混乱があるか。

日経 春秋(11/1) : NIKKEI NET:社説・春秋 ニュース

2000年も同じ土地で同じ作物を作り続けている日本の水田稲作は、世界で最も「持続可能」な農業の一つといっていい。その豊かな水田生態系が、開発や耕作放棄で失われようとしている。危機を脱出するお手本は、なんと米国にあるらしい。米国農業といえば、環境そっちのけで、農薬、肥料を大量投入するというイメージだが……。

 日本人の反米感情はしかたないけど、あいつらとにかくすごいですよ。
 一定以上の成績の高校生はみんな米留させるといいですよ。

日経社説 北朝鮮の6カ国協議復帰は制裁の効果

 ヒル米国務次官補は6カ国協議を11月にも開催したいと語ったが、北朝鮮を除く5カ国は安保理決議1718を改めて読み返し、そこに書かれた目的の実現を確認する必要がある。北朝鮮が核廃棄への道筋を明確にすることなく、事実上の核保有国として協議に復帰する格好になれば、すでに相当程度揺らいでいる核拡散防止条約(NPT)体制に対する信頼性はさらに失われる。

 NPTなんてもう事実上ないんですけどね。
 韓国は大喜びだろうな。
 日本はネットから見ていると嫌韓がめだつけど、米国はさらっと韓国とFTAを結ぶのでしょう。食えない国だよな、米国。
 日本、ナイーブ過ぎ。

読売社説 [損保不払い]「顧客軽視体質を一掃できるか」

 外資の保険ならいいとも言えないだろうが、国内の保険会社の慣例はこんなものなのでは。というか、だからフカス輩も多いのだろう。
 しかし、日本の場合、これだけ国が大きければ民間の保険は意味ない……というはずだったが。

読売社説 [6か国協議再開]「『北』の核の既成事実化を許すな」

 これなんだが。
 先日の核実験後、国内では6者協議は終わった論が多かったが、どうもそんなわけないでしょと私は思っていた、が、まあ、明確にはそうと言えるほどでもない。
 ほいで、その後、あの核実験はたいしたことないでしょと米国が誘導した。ここがよくわからないのだが、米国陰謀論好きがこれだけネットに多いのに、あれは嘘でしょという説は見かけなかった。日本の地震学もコケにされたものだ。っていうか、地学学者は黙ってろだろう。ま、実際、明確にこれはと学問的に言えるわけもないので、庄やで一杯。
 今思うと、今日までの話は実にエレガントな米国外交というところか。
 それにしても北朝鮮って使えるネタだよな、米国にとって。

朝日社説 泥沼イラク マリキ号を沈ませるな

 はぁ?

 情勢を安定させるには、イランとシリアという隣国の協力が不可欠だ。核疑惑や「テロ支援」の問題はあるにせよ、両国とは対話しないという米国の姿勢は、イラク情勢を打開する可能性を狭めるだけだろう。
 新生イラクという舟を沈没させてはならない。マリキ政権の踏ん張りと、米政権の柔軟な外交が求められている。

 シリアがどんな国というのスルーはまあしかたないとして、ようするに、イランとシリアに米国は対話すると、イラク国内の宗派対立は収束する、と。んな。
 それにどんな対話を?

朝日社説 携帯トラブル しっかりせよ、孫さん

 ま、社説ってこんな感じかな。っていうところでよい社説の部類か。標題がちょっといただけないけど、っていうか、孫さんへ視線を向ける問題でもないでしょ。

哲学用語というか

 承前⇒finalventの日記 - 世界史と言えば……
 いわゆる哲学なんかも、英語で読むと、非常にあっけないというか、concrete 。
 マルクスとかカントとか、英語で読むと、なんか、すごいベタ。ヘーゲルなんかさらにベタ。
 フッサールとなるとダメか。まあ、数学的な部分はラッセルなんかと変わらないか。
 ハイデガーになるとア・ウ・チかな、英語だと。まあ、英語圏ではハイデガーっていうのはqうぇrちゅいおp「。
 夏目漱石のエッセイとか読んでいると、彼は、William James とかよく読んでいる。まあ、Hennryのもだが。
 W.James というのは日本だとついプラグマティズムみたいに読まれるが、どうも、ベクルクソンなんかに近いようだ。
 あのころの日本の最高の知識人、じゃないか、哲学系か、ま、そのあたりが、どうも昭和の流れに結びついてこない。小林秀雄などを読むと、ベルクソンはよく読まれていたようなので、その流れがないわけはない。やはり、戦争あたりで切れたのだろうか。近代の超克っていうか。

アリス&テレス

 もともとギリシア+スラブ萌えの私なんかだと、どうもプラトンまでというかプラトンからロシア正教神学みたいなげげげげげに流れてしまうし、スコラ哲学って、スコラでしょみたいな先入観があるというか、こんなもの手間食って考えられるかよ、ヴィトゲンシュタインはてっとり早いぜみたいに思うのだが、しかし、考えてみると、ヴィトゲンシュタインっていうのはまるでプロダクティブではない。大森荘蔵とデイヴィッドソンの違いような。ま。
 で、どうも、アリストテレスかという感じがする。手元に資料がないので、ウィキ頼みだが。
 たとえば⇒デュナミス - Wikipedia

 デュナミス (dynamis) とは能力・可能態・潜勢態の意味を持つ、アリストテレスの哲学の概念である。
 事物の生成とは可能的なもの(例・種子)が現実的なもの(花)に発展することである。これを、前者をデュナミス、後者をエネルゲイアという事を指す。この両概念は質料と形相の関係にも対応する。さらに、その可能性を完全に実現して、その目的に到っている状態のことをエンテレケイアと呼ぶ。可能性(可能態)に対する実現化ゆえ、これはデュナミスと対になる語である。即ち、デュナミスはエネルゲイアと、さらにはエンテレケイアと相対を成す概念であると言える。

 これって、つまり、現代的には後期ハイデガーでしょ? ま、ベタにアリストテレスではないのだろうけど。
 ニーチェハイデガーも哲学者というより文献学者だし、しかし、彼らのいうギリシア的なるものっていうのは、日本人がプリミティブに考えているのとどうも違う。
 っていうか、ラテン語から逃げられるかと思ったあたりが、痛かったか、俺。
 ラテン語というのはギリシア語からの人造語だし、その思想はただのパ・ク・リとたかをくくっていたのだが、どうしても現代には直につながってこない。
 それに、これに、イスラム神学とか中世ユダヤ哲学なんかも関係してくるのだろうな。うへぇ。まあ、欧米でもすでに哲学畑でそれやるやつはいないだろう。
 ただ、どうもこうした素養がコンピュータ・サイエンスに影響しているっぽい。
 まあ、しかし、影響なのか、れいのオントロギーのような悪ふざけなのかよくわからない。
 日本の場合、戦前の独逸哲学、戦後のおフランス哲学が、どうもいかんな。根っこのラテン語的なものから、もっとベタに英語的に移し換えて、その伝統のなかで継承された部分をもっとパッケージ化してよさげな気がする。っていうか、まあ、インターネット世界がそうしたパッケージになりつつあるが。
 それにしても、英米人というのは、なんであんなに糞勉強するのだろうか。
 話はずれるが、批判ではないが。

cover
対話・心の哲学―京都より愛をこめて: 冨田 恭彦
 違うなぁと思うのだが。
 どう違うんだよと言われてもなみたいな。

FPっていうかIMEっていうか

 FP(Functional Programming)でAPLの系統があり、ま、今だとJ、なんだろうけど、Haskellとかが話題なのは、productiveということなんだろう。
 今、日本の理系の大学では、Mathmaticaとか使っているのだろうか。あれって、フリー版みたいのはないだろうか。
 っていうか、初等数学からコンピューターサイエンスへの橋渡しが、いまだにどうも理解できない。
 あれだ⇒ジョン・バッカス - Wikipedia

その後彼は「関数レベルプログラミング言語」FPに取り組んだ。これはチューリング賞受賞の際の講演 "Can Programming be Liberated from the von Neumann Style?"(プログラミングはフォン・ノイマン的スタイルから解放されるか?)で述べられている。この論文は FORTRAN を生み出したことへのバッカスの謝罪と受け取られることもあり、彼の研究していた FP そのものよりも関数型プログラミング一般の研究を盛んにする結果となった

 まあ、Fotranは、しかたがなかったんだよではある。

FP はケネス・アイバーソンのAPLの影響を強く受けており、標準的でない文字も使っている。その後のバッカスは FP言語の後継のFL(Function Level)の開発に注力した。FL はIBM内部のプロジェクトであり、プロジェクト終了とともに言語の開発も終了し、論文もわずかしか発表されていない。しかし、この言語の革新的で重要なアイデアの数々はアイバーソンのJ言語に実装された。

 つうわけで、Jにくるわけだ。
 バッカスのごめんちゃのベースにはやはり数学があると思うのだが、ただ、Jになってしまったのは、APLもしかたがなかったんだよ、ではないのか。
 とはいえ。
 ⇒ケネス・アイバーソン - Wikipedia

後に彼は Roger Hui と共にJ言語を開発した。1990年代以降は、J言語の発展と、それを用いた数学教育に専心した。2004年10月19日、カナダのオンタリオ州トロントで83歳で死去。

 っていうが、な、泣けるぜ。
 数学教育なんだよな、ようするに。
 純数学というか数学屋の数学というか理論数学というか、ほいと、応用数学というか工学というか微分方程式というかシミュレーションというか、その狭間に、数学教育がヌケ。そしてその先にコンピュータサイエンスがなんか奇怪にドーン、だものな。
 Jか、な。それでいいのか。いいわけ全然ないよな。とほほ。

あれは本当にうまい

 ⇒美味ベニテングタケ・・良い子はまねしちゃダメ

イボテン酸の強烈な旨みは同時に食べ比べたホンシメジを遙かに上回る美味しさです。こんなに旨みの強いキノコは他にないでしょう。しゃきしゃきした歯ごたえも秀逸で、とりつかれたように一気に食べてしまいました。

 私も食ったことがある。
 そのとおり。
 ただし、飲み込むのを理性で抑えて、べーした。

酒を止める日

 ⇒エキサイト社長、山村幸広のインターネットブログ : なんか「焼酎」に飽きてきました。 10月31日

「ヘン、酒を止めてまで、生きとうはないわ。」
「私の言うこと聞く?」
「てやんでえい。」
「いい?ビールをジョッキに一杯にしなさい。そして日本酒を焼酎に。焼酎の水割りだったら10杯まで飲んでいいわよ。そしてブランデーはウイスキーに変えるのよ。そしてシメはなし。どう守れる???」
「御意に。」
 という事で、私の焼酎探しに始まった、そりゃもう有名どころの焼酎はみんな飲みましたよ。しかし芋はどうもすきになれなかった。そして行き着いたのが、「兼八」であった。これなら毎日飲める。それからは「兼八」、泡盛の「わんから」、「銀の水」らを探し当てた、ボトルキープの全ては、ヘネシーから「響」へ。シメはやめた。
 しかし次の年のドックは違う人間になっていた。今でもあの時の女医さんに感謝している。他の人たちのように彼女は「やめるな。」といわなかった。しかしあの時からお会いできていない。

 よいお医者さんでした。
 まあ、人生、酒を止める日は来る。(ちんこが勃たなくなる日も来る)。幸いにして、その日は臨終と重なることが多い。
 私は、不幸にして(あるいは神のお恵みで)、その前に来た。
 5年たって、ちょっと飲むようになった。昔を思うと泣けるほど、ちょっと。趣味も変わった、っていうか、趣味なんかなくなった。

FREE HUGS

 ⇒asahi.com:見知らぬ人との抱擁キャペーン、中国では冷ややかな反応 - ロイター芸能ニュース - 文化芸能

中国では、街で見知らぬ人と抱擁(ほうよう)するオーストラリア発祥の「フリー・ハグス」運動に対し、冷ややかな受け止め方が一般的なようだ。この運動への参加者が警察の質問を受けるなど、一部では混乱も出ている。現地メディアが30日に報じた。

 これはなにかと伝わってないニュースだと思う。
 ⇒Chinese reject free hugging | Metro.co.uk

The Free Hugs campaign is aimed at cheering up strangers by hugging them on the street.

 中国人の人間観を思うとそれは無理というか、だから必要なのかもだだが。
 そうした中国人とは違ってというか、日本人もハギングというのは無理っぽい。

cover
The Art of Hugging: 洋書: William Cane
 そういえば。
 今70代くらいのリアル爺さんにベタな左翼が多いが、この人たちは、歌うだの、手をつなぐだの、腕を組むのがとーーーーーーーても好き。
 そういえば。
 あ、これこれ。
 これ⇒Free Hugs - The Free Hugs Movement - Juan Mann
 もとの腰痛部⇒YouTube - Free Hugs Campaign. Inspiring Story! (music by sick puppies)
 同じ⇒YouTube - Free Hugs ReUppies
 ああ、これこれ。見ていて、なんか、涙が出てきてしまうな。
 日本の若者もきっと真似するな。
 で、それは、とても、よいことだと思う。
 日本語だと、「私を抱いて、ダイジョーブ」か。FREE HUGSではベタ過ぎ。
 やるなコリアン⇒YouTube - Free Hugs in KOREA
 負けるなイスラエルYouTube - Free Hugs in Tel Aviv
 チューリッヒYouTube - Free Hugs in ZURICH
 わろた⇒Chief Delphi - Free Hugs

景気の話

 なんつうか。ま、与太話ってことで。
 きっかけは⇒404 Blog Not Found:もう景気はいいから
 弾さんが書いているとこういう話も笑って読めるみたいなところがある。引かれているこれも、たははというのはある。ブログの世界は意外な性善説の世界である、Web2.0だし。
 たはははこれ⇒大西 宏のマーケティング・エッセンス:景気が悪いという巷の声は当たっているが
 まあ、私なんぞも、経済音痴というか、どうでもよろしの部類であろう、ってことで、与太話にちょっとだけ参入。
 景気というのはグロスの効果と、実際の生活の消費の部分があって、後者は給料前のセブンイレブンの売り上げは低いとかとかとか。まあ、これは生活実感。ただ、これらの動くお金はただマーケットのスケールに依存するだけのこと。っていうか、デフレが進めば実質の可処分所得は上がっているに等しいので、生活の苦しさというは、意外とない、とまでいいきれないのが、カードローンとか街金利用者の存在とかだが、まあそれは捨象して、マジョリティの生活者は現状にそれほど不満でもない。っていうか、不満ならマジ自民党がもたないってばさ。
 で、前者のグロスというのは、これは端的に言えば、一生モンの買い物っていうか、不動産っていうかローンに嵌めるっていうか。ま、庶民からはそう。それ以外でも不動産が動かないと景気なんてどうしようもない。で、そのあたりの動きは現状、ぼちぼちでんなっぽい。人口縮退しているんだし。
 庶民的には、こうした不動産の購入っていうのは、つまり、べたにローンなわけで、これこそ、べたに生涯所得予想に相関する(だってそれがないとローンが組めないってば)。っていうことは、能力なんかさしてない庶民にしみてると堅い商売っていうか職業の鉄板がないとだめ。そのあたり庶民をどう支配者は活かさず殺さずかというのが、社会を維持する要。
 もうマジョリティは、捨象すれば、豊かなその日暮らし。なわけですよ。世界の貧困ラインからみれば日本なんてべたな天国ですよ。ただ、心の問題とかはそうはいかないにせよ。
 で、そのあたりの動きはもう以前の日本のようなモデルでなくなった。というあたりで、もう景気なんてものは日本に戻ってはことない……まあ、その意味では。
 で、じゃ、現状の数値上の好景気ってどうよなのだが、規模的にはどってことない。修辞の類ではあるし、デフレは終わってないっていうか、終わらないんでねーの。
 でも、現状お金は企業にじゃぶじゃぶしているわけで、このあたりは与太話の最たるところだが、ようするにそれが給与として労働者に還元されない。なぜよ、と?
 なぜ、企業のじゃぶじゃぶが労働者に還元されないのか?
 っていうか、それは、よーするに、日本社会の構造っていうことなんじゃないかと、思うあたりで、私は構造改革論者ですてば。
 っていうか、日本の場合、金持ちの存在は社会的に許されていない。階級もカネという面では実際には存在していないに等しいくらい笑ってしまう。
 じゃ、どのようにその階級が存在しそれが社会支配を行っているかというと、まさにそれ自体が権力のシステムを作り上げているから。ベタなところでは閨閥。それについで学閥。あるいは家柄。その維持にカネが投入され、そして庶民の参入でもっとネズミ講的にカネが吸い込まれるようになっているが、実際にそこに参入できる庶民なんかいないのだし、成金は成金の行動をとらないと社会的に消される。
 で、ようするに、日本の金持ちっていうのは、個人の資産ではなく、権力のシステムをリフレクトして、会社のカネを事実上私服している内々のインサーダーズ。まあ、そういうものが日本社会。(あと、社会主義的社会を維持して民間を排除するための公務員っていうか、公務員に準じるようないろいろ。)
 なので、会社にカネをじゃぶじゃぶさせておくしかない。 っていうか、そうしておけば、総体の日本社会の安定性も助かるし、日本の場合社会レベルが高すぎるのだからビンボ人も別に困らない。二千円あればカツ丼とか天ぷらとか、うへぇ、もうこれ以上食えねですだ、お代官様ってことになる世界。四千円のカツ丼とか天ぷらとかあまりない。あるにはある。でも、八千円のカツ丼と八千円の天ぷらで、うーん、ちょっと旨いかなくらい。つまり、その差はないに等しい、うっぷもう食えねぇの飽食の地獄。
 生涯所得予想とその日暮らしのバランスはその社会の安定性の産出でしかない。しかたないってわけ。
 というわけで、実は、このモデルはけっこう被支配の大衆の生活には最強のモデル。
 っていうか、日本の支配層が会社を経由して経済支配するような構造が変化できるものか皆目わからない。
 っていうか、どうせ庶民一人の人間の生涯でどうなるものでもない。
 っていうか、南極で暮らすにはそれなりの知恵が必要だし。まあ、ガルブレイス的には潤沢な社会が出現したのだから、庶民はそれで満足せよってこと。

白川静、死す

 ⇒asahi.com:中国文学者の白川静さん死去 著書に「漢字」「孔子伝」 - 文化一般 - 文化芸能

 漢字研究の第一人者として知られ、文化勲章を受章した中国文学者で立命館大名誉教授の白川静(しらかわ・しずか)さんが10月30日午前3時45分、多臓器不全のため京都市内の病院で死去した。96歳だった。

 かつて若気の至りでこんなことを書いた
 こんなこと⇒極東ブログ: 白川静は「と」だと思う
 今ならこうは書かないな。無意味な反発を招きすぎた。
 関連⇒極東ブログ: 漢字は表意文字という話
 関連⇒極東ブログ: 漢字という虚構