イチネタ

 ちょっとピックアップするにはヤバイネタかなと思ったけど、ま、いいか。
 ⇒Teen IQ, activity tied to later dementia risk
 英語なんで読みづらいかもだけど、ようするに、高校生のときにIQ低いやつは後年痴呆症になりがち、ということ。
 え?! みたいな、そりゃそーでしょ、みたいな話。
 どうも、痴呆症っていうのは高校生のときからじわじわじわじわじわじわわじわじわじ(わじわじはうちなー語)じわじわ進行しているかもね説。

The new findings "add to a growing body of knowledge that dementias, such as Alzheimer's disease, may have a very long-term course, perhaps starting decades before clinical symptoms emerge," said study author Dr. Thomas Fritsch, of Case Western Reserve University in Cleveland, Ohio.

 ま、身も蓋もないってな御説。
 とりあえず、ありげに、だから、高校生んとき勉強しとけと…というか、タバコ吸って酒飲んでんじゃねーよ小僧的な説教もあり。

"They also indicate that the risk for dementia late in life may be decreased by maintaining an active lifestyle as a teenager," he added. "However, this conclusion is based on only one study and must be confirmed in other research."

 この手の研究、日本でもやったら、なんか明確な答えが出そうなので、や・る・な・よ。

今日の新聞各紙社説は…

 特に論評するほどのことはないかというのをパスにしてみた。
 橋梁談合が一つのテーマでもあろうが、新しい基軸があるわけではない。
 気になったのは毎日の拉致問題の取り上げかただ。新聞社としてこの問題にどう取り組むという腰が定まってないんだろうなと思わせる。
 朝日が郵政民営化賛成らしいのだが、民主がボトルネックだよとは言わない。滑稽な感じだが、そんなものだろう。
 ライス会談に触れた社がないというのはどうなんだろか。

●日経社説 安保理改革、アフリカ説得を

 パス。

●産経社説 朝日NHK問題 「頬かむり」は許されない

 ちょっと笑えるが、よいだろう。

 今年五月、フィリピン・ミンダナオ島で旧日本兵が生存しているとする情報を、産経は一面トップで報じた。産経は家族らに負担をかけたことを反省し、六月十二日付で旧日本兵生存情報の経過などについて検証した。NHKの番組「プロジェクトX」で、取材対象の高校から「一部事実誤認がある」と抗議を受け、NHKは「行き過ぎた表現があった」と謝罪した。
 一昔前なら、問題の朝日記事も、時の経過とともに、うやむやに終わったかもしれない。今は、頬(ほお)かむりは許されない。日本のジャーナリズムの信頼を取り戻すためにも、朝日は自ら記事の真偽を確かめ、全国の読者と視聴者に納得のいく説明をしてほしい。

●毎日社説 温暖化対策 ポスト京都はサミットから

 穏当というだけ。米国の評価はこれでよい。

●毎日社説 日米外相会談 拉致問題でも連携強化を

 気まぐれに拉致問題をクローズアップさせる世論の掻き立ても困るのだが。

●読売社説 [『国語』世論調査]「日本語を守る意識が高まった」

 学校教育と生涯教育のあらゆる場で、国民が美しく正しい日本語に触れ、学ぶ機会を増やす国語施策が求められる。

 きちんと日本語が話せる老人が重要。ラジオ深夜便、よろし。

●朝日社説 談合と天下り 癒着の根を断つには

 パス。

なんつうか、私もすでにネットワーカー→ブロガー→ブックマーカーという…

 変態を遂げているような…気がしないでもない。
 「ソーシャルブックマークは終わった」「ソーシャルブックマークの日本の使い方はホゲ」とかいうエントリがあったら劇藁。

うだうだの続き…

 昨日のうだうだだが、それからちと、生活世界(Lebenswelt)の扱いが杜撰すぎたかな、と。
 所与の世界の意味性というのは、直接的には、欲望とはつながらないし、過去の想起が欲望と関連した感情によって惹起されるものとはいえ、それが生活世界(Lebenswelt)の根底にあるものとは違うだろう。
 このあたり、大森(大森荘蔵)のいう風情(ふうじょう)とも関係するかもしれない。
 生活世界(Lebenswelt)は、とりあえず、情的世界と言ってもいいし、世界とは人間にとって情でしかない。このあたりも大森用語っぽいが、「天地有情」である。
 生活世界(Lebenswelt)というのは、一つには、天地有情と言っていいし、他方ではゲームでもあるだろう。ヴィトゲンシュタインの言語のゲーム性とは、多くの哲学者が言語側に基軸を置いているが、そうではなく、それがプレイされる世界の側が重要だ。その意味で、ヴィトゲンシュタインは、世界には生きる価値があると言っている、と言ってもいいのかもしれない(このあたり総叩き受けそうだが)。
 話がずっこけるが、大森の用語がどうも自分に定着しているせいか、そこから書き起こすとどうも奇怪だな。
 中島義道なある意味で大森の継承だが、思考のツールとなるタームは極めてカント的で、実は、とても体型的でわかりやすい。問題は中島義道のある感性だけとも言える。彼は、なにか、善を追及しているが、おそらくそれは阿闍世コンプレックスみたいなものでもあるだろう。
 さておき。
 過去を惹起する欲望それ自体が、記憶ということで、生活世界(Lebenswelt)の天地有情の欲望性というのは違うのだろう。というか、私は本当にこの世界に充分に欲望しているのか?
 というあたりで、欲望とは主体の欲望ではなく、欲望せらるるところの被投企性でもあるのだが、そのあたりはきちんと議論しないと、馬鹿みたいだなぁ。

たぶん、自我というのは

 現在の天地有情の欲望刺激(仮にそう言うとする)によって惹起される、過去の欲望との調和なのではないか? 違うかな。
 現在の欲望の持つ、この被投企性というのはなんと言っていいのだろう。このあたり、ヴィトゲンシュタインフッサールもなんも言ってないような気もしないではない。
 いやフッサールは言っているか? あるいは竹田(青嗣)は言っていたか。ようするに、天地有情にあって、己の欲望を告知されることで己が存在するという存在構造なのだ。サルトルとかの投企性とかどうでもいいよ、と。むしろ、ポンティなどはそう考えていかも。
 繰り返すが、「おぉっ、ナイスバデー、やりてぇ」という「やりたいのは誰?」「はーい、ボク」というふうに自我は惹起する。もちろん、ナイスバデーの知覚それ自体にその欲望性は内包されていて時間的な因果的な連鎖ではない。
 というところで、ブレーク。

はてなQ 沖縄県で「おばあちゃんの知恵袋」「風習」的な、古くから言い伝えられて現在まで残る知恵を探しています。

「例)島バナナを揉むと甘くなる」県内の、どの地方に伝わる話かまでわかれば嬉しいです。

 これは、ですね、こういう専門書があります。
 『南の島のインテリばぁちゃん』(新星図書出版)
 著者名はないのですが、取材・草稿は伊芸久子。
 沖縄には沖縄書籍専門の古書店があるので相談するとまだ入手可能かと思われます。
 本土の古書店でもありそうです。
 ⇒Google 検索: 南の島のインテリばあちゃん
 これは、ちょっと見ると、些細な本ですが、すごい本ですよ。

ちなみに自我論うだうだは…

 このあたりとちょっと関係はあります。
「私」の秘密―哲学的自我論への誘い



著者:中島 義道

販売:講談社

価格:\1,470

媒体:単行本



通常1〜2週間以内に発送

 なかなか、というか、かなり、よい本ですよ、ちなみに(再帰call)。

大森荘蔵曰く、天地有情、無我なり

 ということで、彼は、我の属性なり我に帰着される感情的なものをすべて天地の側に返すことで、自我を空っぽにしてしまった。
 が、たぶん、これは、ある意味で、仏教的な悟りというか、そういうものに近いのだろうと思う。
 大森哲学の最後は、まだ未決の問題があるとはいえ、彼自身の死を解体すべく、自我を原理的に壊滅した。もう少し正確にいうのなら、時間を消滅させることで、それを達成した。のだが、その無時間論と無我論は、私が読むかぎり、うまく接合されてはいない。
 大森と道元を結ぶものは、たぶん、回想と感情の問題だろう。
 大森の先に道元がいる、というだけのものではないだろうし、また、そうした擬似的な悟りを得たいがための思惟ではない。
 と、横道。

感覚・知覚の主体が「我」であるという認識の回路こそが…

 たぶ、「我」であり、「我」は、我が所属している記憶との照合の関係なのだろう。
 だから、
 
      世界 ⇔ 知覚 ⇔ 我 ⇔ 記憶
 
 というサーキットが存在するのだろう。ただ、このモデルは、世界と知覚を分離している点で二元論だが、ここでいう世界とは所与なので、知覚そのものといってもいい。
 
      知覚 ⇔ 我 ⇔ 記憶
 
 もちろん、記憶とは過去の記憶であり、その記憶を命題群としてみたとき、それに明証なり真を与えているのが「我」ではあるのだが、たぶん、話は逆で、そうした明証・真の命題のサーキットの自動リダクトのシステムが我なのだろう。
 我はたぶん、過去の快楽の保持と、過去の苦痛の回避、という、目的をもったシステムなのだろう。それが、現在の知覚をその範疇に向けてプロセスしているだけなのだろう。
 とりあえずの問題は、「快楽の保持」とした場合、過去の快楽とはすでに失われた快楽なのだから、それを現在から未来によって再獲得しようとしている。あるいは獲得するに値する「自分」という世界への表象を維持しようとしている。
 と、そこまではいい。
 そこまでは、納得しないとしても、スキームとしてはわかりやすい。
 問題は、なにか、そこに、フロイトのいうような死の欲動のようなものがあるのはなぜか。
 というか、その欲動を原理性にたてると、フロイトラカンのように先験的な人間論ができてしまう。

おそらく死の直感は…

 というか、その欲動は、こうした我の根源的なviciousなありかたへの同じく根源的な批判なのではないか。
 「我」が死を恐れるのは、「我」が過去からなりなっていること、そして、もはや死の先に快楽が保証されないことだ。
 「我」は「無」を恐れているより、そうした存在論的なフレームワークが根底にあって、そこから各種の感情とそれを批評するような死の情感が存在しているのではないか。
 そもそも、我々は、なぜ、この世界に、生命として存在しているのか?
 たぶん、その問いはナンセンスで、というか、問いが間違っているのだろう。
 ちょっと問いのテンションが弱いので、思考がだらけている。
 やめよ。

話を卑近というか実感に戻すと…

 48歳にもなると、30年前など昨日のことのようだ。
 だが、たぶん、私は30年後は生きていない。
 いや生きているかもしれないが。それでもその時、60年前は昨日のようだ、というままだろう。
 30歳のときには、まだ、人生になにか実現すべきなにかがあった。
 今は、なにもない。
 ただ、生きているだけ。
 ただ、生きているだけいいじゃないかとは思うようになった。
 過去の夢や希望からもう解放されてもいい時期だ。
 どれだけ生きられるかわからないが、できるだけ普通になにげに、つまり、笑うことが多く生きていたいと思う。