大森荘蔵曰く、天地有情、無我なり

 ということで、彼は、我の属性なり我に帰着される感情的なものをすべて天地の側に返すことで、自我を空っぽにしてしまった。
 が、たぶん、これは、ある意味で、仏教的な悟りというか、そういうものに近いのだろうと思う。
 大森哲学の最後は、まだ未決の問題があるとはいえ、彼自身の死を解体すべく、自我を原理的に壊滅した。もう少し正確にいうのなら、時間を消滅させることで、それを達成した。のだが、その無時間論と無我論は、私が読むかぎり、うまく接合されてはいない。
 大森と道元を結ぶものは、たぶん、回想と感情の問題だろう。
 大森の先に道元がいる、というだけのものではないだろうし、また、そうした擬似的な悟りを得たいがための思惟ではない。
 と、横道。