感覚・知覚の主体が「我」であるという認識の回路こそが…
たぶ、「我」であり、「我」は、我が所属している記憶との照合の関係なのだろう。
だから、
世界 ⇔ 知覚 ⇔ 我 ⇔ 記憶
というサーキットが存在するのだろう。ただ、このモデルは、世界と知覚を分離している点で二元論だが、ここでいう世界とは所与なので、知覚そのものといってもいい。
知覚 ⇔ 我 ⇔ 記憶
もちろん、記憶とは過去の記憶であり、その記憶を命題群としてみたとき、それに明証なり真を与えているのが「我」ではあるのだが、たぶん、話は逆で、そうした明証・真の命題のサーキットの自動リダクトのシステムが我なのだろう。
我はたぶん、過去の快楽の保持と、過去の苦痛の回避、という、目的をもったシステムなのだろう。それが、現在の知覚をその範疇に向けてプロセスしているだけなのだろう。
とりあえずの問題は、「快楽の保持」とした場合、過去の快楽とはすでに失われた快楽なのだから、それを現在から未来によって再獲得しようとしている。あるいは獲得するに値する「自分」という世界への表象を維持しようとしている。
と、そこまではいい。
そこまでは、納得しないとしても、スキームとしてはわかりやすい。
問題は、なにか、そこに、フロイトのいうような死の欲動のようなものがあるのはなぜか。
というか、その欲動を原理性にたてると、フロイトやラカンのように先験的な人間論ができてしまう。