先日のTwitter発言のまとめみたいな

 思考は関数で、「私」はその返却値ではないか。
 別の言い方をすれば思考というメカニズムが「私」を機械的に生み出している。思考が止まれば、「私」はいない。
 ただし、そういう比喩で語るとき、それでも「私」のコアのようなものはありそうだし、現在知覚の所持者として「私」が存在しそうに思える。ここがたぶんこの難問の急所だろう。
 世界を知覚している主体としての「私」はありそうに思える。だが、それは常に疎外、客体化、遅延、物語化を介している。デリダ的な差延がありそうだ。というより、差延は、そうした現在知覚の「私」を、デカルトのゴギトのように原初的なもの(アルケー)として措定している。
 でも、その措定とは、原初的なものを求めるための、詐術にすぎないだろう。
 実質的な意味での「私」とは、「私語り」という記憶の権限として、語られるうるものとして現れる。
 記憶とは「私語り」である。そして語られる出来事は、「私」によって「それがあった(過去)」と保証される。あるいは、身体に年輪のように参照される。
 だが、ここで奇妙な逆転が可能になる。
 「語り」であるなら、いかようにも語られるのではないか? 
 私の記憶はなぜ私にリアルなのか? それは、今知覚しているからで、今現在の知覚の「私」を偽装的に過去に流用しているにすぎない(昨日の指の痛みは痛くないのに今痛いとして理解する)。
 夢もまた語りだ。
 今、私は夢を見ている。現実のように明晰に夢を見ている……と、語る、目覚めてから。
 しかし、目覚めた私と明晰な夢を見ている私の違いは、語りという点では、どこにもない。同じ立場だ。そしていつか、最後の夢のなかで人は目覚めなくなる。
 単純な話、覚醒している私が夢の中の経験を私にアソシエートしているのはその権限の有無でしかない。
 ところで、ハイデガーは実存、つまり、「私」を世界内存在と捉える。「私」というものを普遍的な生体の器官、自我として捉えるなら、自我はおそらく生体の生存のためのツールとして形成されたものだろう。するとその生存そのものが外界のインタラクションとして成立している(世界内存在)ということは、自我はその世界の課題を受けるために生成されたものだ。世界と私は相互作用・現象なのだとしてみよう。確かに、私は世界と不可分に存在しているように思われる。
 だが、その私は明晰夢を見ている私ではないのか?
 夢を見る、そして目覚める、そして夢を見る。私はそのサイクルのなかで、常に私たりえる。世界内存在としてあるにもかかわらず、そこにはあたかも私の意識を軸として、世界を多様にすり替える。私は、今も私、明晰夢のなかでも私。世界はまったく違うのに、私はそこに同じものとして違った世界の記憶を保持している。
 世界とは、たんなる可交項なのではないか。そこを書き換えるとき私が変わる。蛙の私、鳥の私。風の私。大地の私。
 夢の中の「私」が「この私」であるという明証性は、転生、つまり、「別の時代の生の私が私である」をも保証しうる。
 過去生と明晰夢とどこが違うのだろう? 同じだ、夢を見るなら。
 過去生の私が私であるのは、明晰夢の中の私が私であるのとまったく同じくらい自然だ。ああ、腹が減ったな、とつぶやいてもそうだ。
 近代が「死」を発明するまで、人類は転生を続けていた、とも言える。
 近代が「死」を発明したというのはちょっと言い過ぎただろうか。だが、「死」はまったく自明ではない、ということが自明なのだ。
 たぶん、現代科学、あるいは、近代、あるいは、魔術からの解放、というのは、根拠のないルールだ。転生を禁じ、死をもって終えることにしようというルール。(たぶん近代的な国家を形成するためのルール。)
 この近代の空間は死が最終的な確実性であるという憶見から成立している。そして人は、公的には、死後、復活しない。
 ハイデガーは、だから、人を死の先駆として位置づけた。でも、残念だったな、マルチン。大間違いだよ。
 死と覚醒は夢と夢のつなぎ目においてなんの違いもない。
 死は無であるといい、やがて私は永遠の無になるのだと、確信することを強いられるが、それはルールだ。
 あるいは、古代人ですら、実際には、死を無に近いものとして知覚していたかもしれない。
 でも、そうした「死=無」のルールは、子によって「私の生」の継承を目論む。子供やコミュニティの子供のなかに受け継ぐ生のなかにその「私」の代替を見る。つまり、国家があれば死ねる。(私が死んでも国家の中に私の生を引き継ぐ子はいるのだから。)
 だから、「死=無」のルールは、国家の起源となる。
 国家はどこまで大きくしてもいい。あるいは地球があれば死ねるというなら、地球が国家だ。
 環境問題が宗教化してしまうのは、国家愛を人類愛みたいなものに置き換えて、地球を人類の場としているからだ。つまりは、国家愛と同じレベルの醜悪さ。
 「死=無」がルールに過ぎないなら、ルールをどかせば、死は無ではないかもしれない。
 無のようなものであっても無ではないなら、無は「私」という有を、メカニズムとして、生み出すだろうか。そんなことはない。私はただ有のまま世界を転生しているだけなのだ。
 それとも、私は生成されたのか?
 生成であるというなら、なんのために? 
 その思いはすべての苦悩につながり、最後の叫びを上げる、「生命とか存在しなければよかったのに!」
 ヨブはそう呪いの声を上げた。母の胎に宿らなければよかったのに。サド侯爵の快楽の夢は女性を封じることだった。
 だが、私はただ有のまま夢が交換する世界を転々と転生しているだけでも、バルド・ソドルの知恵は女の子宮に入らないことを教えた。