というか、その欲動は、こうした我の根源的なviciousなありかたへの同じく根源的な批判なのではないか。
「我」が死を恐れるのは、「我」が過去からなりなっていること、そして、もはや死の先に快楽が保証されないことだ。
「我」は「無」を恐れているより、そうした存在論的なフレームワークが根底にあって、そこから各種の感情とそれを批評するような死の情感が存在しているのではないか。
そもそも、我々は、なぜ、この世界に、生命として存在しているのか?
たぶん、その問いはナンセンスで、というか、問いが間違っているのだろう。
ちょっと問いのテンションが弱いので、思考がだらけている。
やめよ。