薄曇り・ログイン

 早朝にどたばたとしたことがあり、目を覚ます。二度寝もせず、いつのもトーストではなく、冷や飯を温めて朝食とする。冷蔵庫には納豆があった。パン食ではなくても朝はイングリッシュ・ブレックファストティーを飲むのが常だが、コーヒーでも飲むかと思うがコーヒーは切らしていた。いや書きながら、挽いてない豆があったかと思い出す。つばさを見る。ある意味でクライマックス。ありがちな展開だが、感動的ではある。青春も人生もああいうものではないし、またそれを希求するのもどうかと思うが、どこかしらそうでもないなと思いが巡る。ドラマとしてはかなりの出来でというかこれ以上望むべくもなく、半年朝ドラを見て疲れた。そういえば昨晩は寝付かれぬということでもないが、過去のことをぐるぐると思い巡らしていた。30年前の感情が昨日のように想起される。たまに、そんなことあるかと人に聞くと曖昧な答えが返る。まあ、そりゃそうだろう。私の感情の時間感覚はいくぶん病的なところがありそうだし、それは心の仕組みとなにか関係がありそうだが、わからない。強迫の一種ではあるのだろうと思う。テーゼ的に言うなら、人の真というものは感情だが、それが今の感情なのか過去の感情なのか、それを保持しようとするマインドの機能なのかは原理的によくわからない。たぶん、その原理に本質的なマルファンクションがあるというのが道元の教えだろうし、時間認識そのものにそれが潜むのだろうとは思う。それでも、過去の真の感情を遡って偽の感情にすることはできない。ではそれは真であるのかといえばそんなはずもなく、時間の推移は命題の真とは関係のないものだ。にも関わらず、「自我」はその倒錯的な真の仮説から形成されている。