仏性
昨日、ツイッターで、「仏性」について少しつぶやいた。つぶやきながら、これは伝わらないだろうなという諦め感があった。
ごく簡単にいうと、仏教についてネットで語る人は、自分が仏教に詳しくて、人に説教なり指導したいという人が多い。こういうタイプの人にはほとんど何も通じない。
さらに、「仏性」というのが、こういうと誤解されやすいのだけど、ほとんどの仏教徒が誤解している。そこまで言う理由は、道元に拠っていて、まず道元の系統以外ではほとんど「仏性」は理解されていない。厳密にいうと、チベット仏教では理解されているので、その系統なら通じる面はある。
このように説明すると、道元という特定派の仏性理解にすぎず、各派にそれぞれ仏性の理解があってもよいという意見が出てくる。それも理解できる。これについても、道元は縷説しているので、それ以上に、ネットのような場では語りづらい。基本、各人が仏教だと信じるものを信じればいいじゃないかというのは、それはそれで市民社会の規則からしても正しい。
道元の系統からするとしかし、ただ衆生の苦を見過ごしているに過ぎないとも言えるし、それゆえに道元があれほどに、心血を注いで「仏性」を説いたというのはある。
ややこしく、これも大げさに思われてもしかたないのだけど、道元の系統、といいつつ、曹洞宗はすでに道元の思想からは離れている。なぜそう言えるかというのは、「修証義」にある。これは、道元の語句集のようでありながら、道元の思想とは異なるものだからだ。と、いうあたりもかなり説明が難しい。
で、「仏性」とは何かなのだが、それこそ、道元が、正法眼蔵で縷説しているとおりなので、それをさらにパラフレーズしてもナンセンスになってしまう。
ただあえて言うなら、仏性とは三法印との関連で見るとよい。ただ、三宝印もなかなか定まらない点もあるので、ややこしい。それでも、核は諸行無常・諸法無我であり、つまり、仏性というのは諸行無常・諸法無我のことである。
道元も縷説しているが、「仏性」というのは、「仏の性」ではなく、「仏」そのものだということだ。
この先も迷路になるのだけど、諸行無常・諸法無我というのは、たいていの仏教徒はすでに知っていると思っている。諸行無常というのは、常なる者はない、であり、諸法無我というのは、永遠的な実体はないということである。そして、すべては、空しく過ぎていくといった理解に陥る。
ここが道元とまったく異なるので、道元は過ぎていかない、としている。今、この刹那に有、つまり、有時、が、仏性で、時間という迷いを前後際断している。このありかたが諸行無常・諸法無我であり、仏性である。
では、なぜそれが坐禅に関連するのか?
ここがまた難しい。禅というのは、メディテーションでもなければ、悟りに至る道でもない。これも道元が縷説しているとおり。
坐禅はそのままに仏であるというのは、時間という迷いを前後際断いる有時を示しているから。
これらの根幹には、四法印になるが、一切皆苦がある。仏の教えというのは、一切皆苦に向き合う生き方だし、禅とはその苦を逃れる最後の真理だからだ。とかいうと大仰だが、道元も実際はそう言っている。
では、どうして一切皆苦という苦から逃れるのか? これは、悉有仏性を自分で知ることであり、この知るというのが修ということ。別のいいかたをすると、苦は時間という迷いを前後際断されないところから、我の妄念が生み出したということを知ること。
これも難しいと言ってよいのだけど、これによって苦から逃れるというのは、普通人が思っているような「救済」「救われる」「悟る」というのは、けっこう違う。
自らが作り出した苦をまさに自らが作り出したとして、自身を支えてきた思考という時間を手放すことにある。
と、まあ、語るほど、まさに宗教めくし、うまく表現しづらい。
追記
ブコメが付く可能性をすっかり失念していた。
以下、簡単に個別の補足を。
苦から逃れたとき、今現前だけがあります。ごく簡単にいうと、理不尽な怨みをすべて忘れて許すということです。
surunpashi
全然分からんが、苦から逃れた先の在り方か、分からん2013/03/23
葛藤が終わり得る根拠性が仏性。
kumatarou3rd
葛藤
2013/03/23
「おまえが理解してないから」ですよかね。
okra2
伝わらないのは仏性そのものの話じゃなくてって事のような2013/03/23
「本当はわかってない」でもいいですよ。ただ、「誰が言ったか」はここで道元なんです。その道元とは、道の元という意味なのですよ。
hatekun_11
仏教内の専門用語で言い換えてるだけのような。本当に分かってんのかなこの人 /「何を言ったか」でなく「誰が言ったか」ベースで語ってる限り内輪以外に伝わるは
ええ、ハイデガーによく似ています。
ずがない2013/03/23
ハイデガーに似てる。2013/03/23
残念ながらそのコメントは理解できず。まあ、ご自身で理解されていたらそれでいいでしょう。
uk_maniax
そもそもの話として、仏教は相対的にではなく「絶対的」に捉えないと解釈できないものではあり。2013/03/23
そこがポイントです。自分は自分の内面の苦というものを見つめている・感じている・対象化している、というのが迷いであり、対象化する限り、苦が続くということです。見つめている・感じているという主体に見えるものが、苦を支える原動力なのだということです。これが仏性ということでもっとも重要なことです。
yzxnaga
「自らが作り出した苦をまさに自らが作り出したとして、自身を支えてきた思考という時間を手放すことにある」2013/03/23
まず、仏性は実体ではありません。諸存在に実体がないというのが仏説であり仏性ということです。「実存への敬意」というと、そしてそれを人権思想に対比させているところを見ると、主体(実存)に対象化された諸存在が尊いというふうに理解されているのではないでしょうか。ところが、道元のいう仏性はそうではありません。
posmoda
「仏性」の実体を言葉で説明することには実はあまり意味がない(と仏説も言う)。悉皆成仏思想とはあえて言うならば実存への敬意。西洋で例えるなら人権思想にあたる。「人権の実在」について議論する人はいない。2013/03/23
「邪推」ではなく、それでいいと思いますよ。ご参考にならなければそれまでです。そもそも正法眼蔵を読んでいただければそれで終わりということです。
shigeno57
過去のエントリーに目を通したらこれまた回りくどいので、伝わらないのは「仏性」の難解さに加えてご自身の説明に難があるからではと邪推してしまった。2013/03/23
こちらこそ。
hihi01
ありがとうございます。2013/03/23
いえ、修行のプロセスは重要ではないのですよ。そもそも「修行」というのはないのです。「修行」ではなく、「修」するという今、この時の一度きりのあり方なのです。
yojik
なぜこんなに回りくどくなるのか。。道元の言葉をWeb向けに要約すると「修行で何か(仏性とか)を見つかるわけじゃなく重要なのは修行のプロセスじゃ!」ぐらいでいいのでは。。修行しないから結局は理解できないんだけど2013/03/23
「総論だけど仏教ってホント意味ないよね、空っぽ、中身ないもんね。」ということの意味が仏教なのです。というと、ますます、「一切皆空なことを一番知らないのがこういう人」と評されるのでしょう。まあ、それはそれでご自由に。
komochishisyamo 仏教
ホッテントリに上がってたのでブクマ。総論だけど仏教ってホント意味ないよね、空っぽ、中身ないもんね。一切皆空なことを一番知らないのがこういう人。2013/03/23
advblog
そこが道元的には重要な部分です。
narwhal
「諸行無常・諸法無我というのは…道元は過ぎていかない、としている。今、この刹那に有、つまり、有時、が、仏性で、時間という迷いを前後際断している。このありかたが諸行無常・諸法無我であり、仏性である」2013/03/23
いえ、それはシンプルに誤解です。道元は禅問答を実際には排除しています。そしてそれにならって私も無理なことを説明しようとしてドツボっているわけですよ。
okachan_man
これが禅問答というものか。2013/03/23
だから、それは「許す」ということでもあるわけです。
arajin 人生
「自らが作り出した苦をまさに自らが作り出したとして、自身を支えてきた思考という時間を手放すことにある。」2013/03/22
思考とは計量・比較でこれが自動的に時間として作用する。過去を未来の思いを失う意識が苦しみを除くと。
goo
「自らが作り出した苦をまさに自らが作り出したとして、自身を支えてきた思考という時間を手放す」
追記
さらに。
それはとても残念なことになりましたね。
locust0138
自称「仏教に詳しい」奴って、穴だらけで主観丸出しで何の説明にもなっていない酷い解釈を述べて、突っ込まれると「仏教とはそういうものだ」「解釈は人それぞれ」とか誤魔化して逃げることが多いような気がする。2013/03/23
そこまで独創的な説明でしたか。道元を読まれたら納得していただけるかな。
rcade00fire01
この人がよくわかっていない。こんなひどい説明は初めて見た・・・2013/03/23
あらあら。
jt_noSke ダジャレ
仏のことはほっとけ2013/03/23
「愚」に通じるところはありますね。
kei_1010
障害を負ったチンパンジーが凹まない。というのに通じてそう。2013/03/23
ええ、それでもOK。ただ、苦から道元を思い出すなら、正法眼蔵の「仏性」巻を読まれたらいいでしょうくらい。
houyhnhm
「お前が思うならそうなんだろう。お前の中ではな」の、お前の中の所が相当広い感覚で、というお話でOK?/元本読んでない。この辺りは中国読みなのかしらん。2013/03/23
ええ。
ryozo18
どうしたって言葉は座禅になり得ないからなあ2013/03/23
追記
いろいろご不満なかた多いようで、であれば、私とはまったく異なる、こういう理解をご参考になったらいいじゃないですか。
こういう理解とか⇒坐禅と暮らし |正法眼蔵 仏性 42
こんなのもありますよ、曹洞宗らしいなあ⇒曹洞宗東海管区教化センター
追記
ちなみに、正法眼蔵の仏性巻の冒頭、
というのを
釈迦牟尼仏言、一切衆生、悉有仏性。如来常住、無有変易。
と訳したとたんに誤訳。
釈尊が言われている。「一切衆生には、悉く仏性がある。仏の本質は常住で、変わることがない」
水野先生の訳は丁寧につぎのように訳されている。
この訳の差がわかるかが、正法眼蔵の仏性巻のポイント。
釈迦牟尼仏が仰せられた、「一切は衆生であり、悉有は仏性である。如来は常住であり、無であり、有であり、変易である」。
つまり、「一切衆生には、悉く仏性がある」と理解してはいけないというのが、道元が一番伝えたかったこと。
この誤解を誤解だというのを明らかにするのが、「狗子仏性」という禅問答というか、理解度チェックテストがある。
「一切衆生には、悉く仏性がある」なら、「犬にも仏性がある」となる。で、そう理解したら、バツという話。ただ、この公案、いわゆる禅問答のように「無」、無が大切とかヘンテコな理解も多く、またまた迷路。
迷路の例⇒狗子仏性 とは - コトバンク