うだうだの続き…

 昨日のうだうだだが、それからちと、生活世界(Lebenswelt)の扱いが杜撰すぎたかな、と。
 所与の世界の意味性というのは、直接的には、欲望とはつながらないし、過去の想起が欲望と関連した感情によって惹起されるものとはいえ、それが生活世界(Lebenswelt)の根底にあるものとは違うだろう。
 このあたり、大森(大森荘蔵)のいう風情(ふうじょう)とも関係するかもしれない。
 生活世界(Lebenswelt)は、とりあえず、情的世界と言ってもいいし、世界とは人間にとって情でしかない。このあたりも大森用語っぽいが、「天地有情」である。
 生活世界(Lebenswelt)というのは、一つには、天地有情と言っていいし、他方ではゲームでもあるだろう。ヴィトゲンシュタインの言語のゲーム性とは、多くの哲学者が言語側に基軸を置いているが、そうではなく、それがプレイされる世界の側が重要だ。その意味で、ヴィトゲンシュタインは、世界には生きる価値があると言っている、と言ってもいいのかもしれない(このあたり総叩き受けそうだが)。
 話がずっこけるが、大森の用語がどうも自分に定着しているせいか、そこから書き起こすとどうも奇怪だな。
 中島義道なある意味で大森の継承だが、思考のツールとなるタームは極めてカント的で、実は、とても体型的でわかりやすい。問題は中島義道のある感性だけとも言える。彼は、なにか、善を追及しているが、おそらくそれは阿闍世コンプレックスみたいなものでもあるだろう。
 さておき。
 過去を惹起する欲望それ自体が、記憶ということで、生活世界(Lebenswelt)の天地有情の欲望性というのは違うのだろう。というか、私は本当にこの世界に充分に欲望しているのか?
 というあたりで、欲望とは主体の欲望ではなく、欲望せらるるところの被投企性でもあるのだが、そのあたりはきちんと議論しないと、馬鹿みたいだなぁ。