心の統一性と「私」

 ⇒知的好奇心解放 - マ儿コの日記 - 言葉と人間の総体と断片化

すべての哲学者と心理学者と精神科医と宗教者に問いたいことなのだが、一般的に心と呼ばれる曖昧なものを一律に人間の総体であり最小単位として捉えるという姿勢の妥当性は、どこでだれが証明したのだろうか?論理的に言えば、まず話はそこからだろう。

 話題設定がないのでレスという文脈ではないです。
 で、マルコ青年のこの問いから発すると、というか、それは私もときおり考えるので、ちょいと。
 まず、心が単一性を持っているかというのは、いろいろ議論はあるにはある。ちょい昔のあたりだと。
 これとか⇒「 心の社会: 本: 安西 祐一郎,Marvin Minsky,マーヴィン・ミンスキー」
 また、さっきのエントリ関連でいうとGとかもそう見ている。
 また、無意識というの存在を前提においた現代世界では、心は常に無意識との関連に置かれるわけで、そこで身体や身体式の問題はある。

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「私」の秘密―哲学的自我論への誘い: 中島 義道
 中島はけっこうばっさばっさと枝葉末節な議論を取り払っているのだが、身体性と、記憶への権利のような議論、さらに時間論が、それほどうまくかみ合っているふうではない。
 ただ、この問題、つまり、「私」とはなにかというのは、どうもある種の絶対性に行き着く可能性はある。
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ウィトゲンシュタインはこう考えた―哲学的思考の全軌跡1912‐1951: 鬼界 彰夫
 このあたりのヴィトゲンシュタイン理解というのはありかもしれない。ある意味で、「私」というものの超越性というか。ただ、いわゆる柄谷とかのヴィトゲンシュタイン理解とは逆になるけど(ってかそんなのどうでもいいけど)。
 で、結局どうよ?なのだが。
 私(finalvent)の考えでいうと、私が多様な断片性であっても、他者の意志の関係から責を受けるという点で、私が同定されると考えている。
 臭い言い方をすると、私は罪を犯し得るし、愛しえる、という主体をとしての私を引き受けなくてはならない、というか、その受容において(それが受容されてはじめて)、人は自由たりえるし、自由の根拠性としてその単一の「私」が与えられていると考える。
 今この場で、愛と罪が可能な存在であることにおいて「私」が単一に現れる、というべきか。
 (そういえば、そのあたりの意志論など吉本隆明の論で読んだことはないな。れいの心的現象論において意志論は欠損しているようにしか見えない。)