で、コミュ・ツールの問題なんだよね

 続きのような⇒finalventの日記 - 心の統一性と「私」
 で、「私」の単一性、というフレームではなく、具体的に先のマルコ青年のフレームだと、コミュ・ツールで幻視される人ってどうよ?ということではないか?
 このフレームを外していたら、大笑い、なんだろうけど。
 仮にそうだとして。
 たとえば、finalventというのは、この形態のコミュ・ツールを使った幻想なわけだ。
 ちょっと比喩的になんだけど、私としては、当初、こんな日記を展開すると思ってもいなかった。極東ブログで終わりでいいと思っていたし、今でもけっこうそれはそうなのだが、というか、極東ブログはこの日記より開いて書いている。曖昧とか難しいとかあるかもしれないけど、私としては読む側が歩み寄ってくれればわかるようなスタンスにしてある。
 こちらの日記はけっこうそういう配慮なし。ある意味でめちゃくちゃ。
 で、たぶん、これがこのコミュツールでできてしまったというのは、どこかしら私の部分集合としてのfinalventがある、とか考えやすいのだけど、案外そうでもない。簡単にいえば、こういうコミュツールがあるからこうなっちゃったんだよね的。
 で、コミュツールなんだけど、いわゆるシステム的な部分が大きいが、その大きさというのはそのコミュニケーション・ツールというより、コミュニティ・ツール的な部分のほうが大きくて、それの迂回としてのコミュニケーション・ツールになっている。
 簡単な例でいうと、はてなぶっくマーク。まさかあんな奇っ怪なツールになると当初想定されていなかった。せいぜいdeliciousのパクリ版くらいなはずだったのではないか。しかし、現実は〔これはひどい〕だのスパムだの罵倒だのツールになったしまった(罵倒がお得意とか、普通の社会ならそれは変だろ的な人を注目させるツール)。で、その罵倒ツールとしてのぶくまだが、振り返って総体的にみると、実にはてな的であるとしかいいようがない。つまり、コミュツールとして最適化されているわけで、そういう環境なかでしか生活できないやつしか、目立った部位のはてなにはいねーわけだよ。
 ぶっちゃけ⇒シナトラ千代子 - ブログ界隈において、はてなダイアラーが最もダイハードなのはなぜなのか
 つまり、これがはてなというコミュツールなわけね。
 そして、finalventはそれにそれなりに最適化された、一種の総合結果でしかない。
 補足すると、シナ千代さんもそうは言っても多面的にダイハードではないはてな村とかもあるにはある。ただ、それではてなが多様化というとそうでもない。別のポーラで捉えられるべき何かだろう。
 話がずっこけるけど、今度の改造で、はてなの入りが変わらざるを得ないようなシステム変更があれば、はてなは変わる。現状のダイハード状態がローカルな問題になるのかもしれない。
 えっと、結論的というか。

言葉はツールに乗る。人と人を言葉が繋ぐならツールで人は変わるはずだ。人の言葉が人を形作るなら、ツールが変わると人間の構造も変わるはずだ。

 それは見え方の場によって変わると思う。
 おセックスという人間の構造については、別の構造が変えるのだろうと思う。
 そしてそれぞれの場において、人は多様に現れるというなら、それはそうなんだろうけど、どこかで人と人の関係は愛と罪によって統一性をもたらされるようになっているのではないかと、私は思う。
 なんとなくおまけ。というか、はてなヴィトゲンシュタインというか。

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ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記―1930‐1932/1936‐1937: ルートヴィッヒ ウィトゲンシュタイン,イルゼ ゾマヴィラ,Ludwig Wittgenstein,Ilse Somavilla,鬼界 彰夫