たぶん、自我というのは

 現在の天地有情の欲望刺激(仮にそう言うとする)によって惹起される、過去の欲望との調和なのではないか? 違うかな。
 現在の欲望の持つ、この被投企性というのはなんと言っていいのだろう。このあたり、ヴィトゲンシュタインフッサールもなんも言ってないような気もしないではない。
 いやフッサールは言っているか? あるいは竹田(青嗣)は言っていたか。ようするに、天地有情にあって、己の欲望を告知されることで己が存在するという存在構造なのだ。サルトルとかの投企性とかどうでもいいよ、と。むしろ、ポンティなどはそう考えていかも。
 繰り返すが、「おぉっ、ナイスバデー、やりてぇ」という「やりたいのは誰?」「はーい、ボク」というふうに自我は惹起する。もちろん、ナイスバデーの知覚それ自体にその欲望性は内包されていて時間的な因果的な連鎖ではない。
 というところで、ブレーク。