今日の新聞各紙社説は…
最初に。
できるだけ主要紙社説を読む方針でいたが、ただ罵倒のための罵倒しているのかというようなコメントをいただくことでもあり、読む意味のない社説は単純に切り捨てていこうかと思う。つまり、馬鹿とかいう価値のあるのだけ、馬鹿と言おう、と。それもあまり品の良いことではないにせよ。
さて今日は…。
主題は六カ国会議だが、読むべきは毎日の社説だけか。朝日はれいによってめちゃくちゃ。この問題はむずかしい。
喪悲観族的にいうなら、中露がたるく構えているということで、ここで北朝鮮に核を持たせるかということだろう。実際持っているのだが、あとは、実験だけだ。この状態の寸前を中国が押し止めているのだが、韓国はそのあたりの中国の方針が読めていない。あっさりいうなら、韓国は経済的な統一朝鮮は願っていないものの核保有には期待をかけているという印象を受ける。これは呆れるのだがしかたない。
全体をシフトできるのは米国、と言いたいところだが、この問題の米国のスタンスはわからない。軍側の長期戦略はあるのだろうが、その上位にある国益が読みとれない。さらに長期的に見れば、中国を事実上の経済植民地化にするということだが、それにはEUとの合意は米国内での統一が必要だがその目ははっきりしない。それ以前に歴史を鑑みれば、中国での大きな問題勃発は避け得ないというかその覚悟が迫られる。というわけで、台湾を含めた地域で軍を解くわけにもいかないのだが、このあたりの問題を中国軍部はすっかり勘違いしている。
フィリピン情勢は私としても地味に情報をワッチしてきたが、ま、それほど大きな問題ではなさそうだ。むしろ、インドネシアの原油が問題のように思うが、あまりメディアで取り上げられていない。
追記
⇒カワセミの世界情勢ブログ: 対北朝鮮問題に関する提言(補足)
米国側からはそんな感じ。
●日経社説 天下り受け入れ再考の好機
ちょっと無茶な言い分という印象はある。
●日経社説 期限を設け核と拉致問題の解決を急げ
悪くはないが世論迎合でピントがぼけた。
●産経社説 キルギス新大統領 民主化推進に期待したい
社説というよりはベタ記事。
●産経社説 6カ国協議 核と拉致解決の原則貫け
外交には原則も必要だが搦め手も必要。産経は拙い。
●毎日社説 6カ国協議 北に核開発の時間を許すな
よい社説である。
朝日もこのくらい言っていいと思うが。
●毎日社説 情報源秘匿 米紙記者の収監を憂慮する
今更このレベルを展開されてもではあるのでそこはそれ以上言うまい。
案外問題の根は、Timeがメディア・ミックスというか、ジャーナリズムではなくなりつつあることがある。しかし、米国の基調のジャーナリズムの骨はがっしりしている。
話題はそしてローブに移りつつある。
●読売社説 [フィリピン]「民主化経験を危機打開に生かせ」
この問題なのだが、現地の話などを聞くに、大衆はそれほど関心持ってないし、むしろ、かつてのようなインテリから大衆操作の線がきれているように思う。とすれば、逆にアロヨ側の大衆操作が効くのではないか。
とりあえず安定を重視するなら…というふうに私には見える。
●読売社説 [6か国協議]「再開で見極めるべき『北』の態度」
進展するかどうかは、北朝鮮の対応次第だ。北朝鮮が確実に核廃棄する、との裏付けがなければ、日本は、北朝鮮へのエネルギー支援に参加できない。
基本はそうだが難しいところだ。
●朝日社説 X線衛星 お家芸で再びロマンを
最先端の宇宙科学で、日本の得意技を生かす。そして、世界の人びとをわくわくさせる。そんな「すざく」になれるかどうか。夜空を仰ぎながら、見守っていきたい。
by 朝日新聞社説
●朝日社説 6者協議 今度こそ結果を出せ
同時に、会合が開かれればよしとする段階ははるか以前に過ぎており、具体的な結果を出さなければならない時期であることを参加国、とりわけ北朝鮮と米国には強調しておきたい。
そりゃ、中国様の代弁人だし。
一義的な責任は北朝鮮。そして次はその後見役の中国。三番目が攪乱している韓国。
中国やロシアは自分たちが核攻撃の対象になるとは思っていないだろう。韓国は北とは互いに同胞意識があるし、もともと脅威と隣り合わせで暮らしてきた。
この点、日本がいちばん神経をとがらせているはずだが、それでも国民の関心は拉致問題の陰に隠れがちだ。
またですか。
イチネタ
⇒「ロレンツォのオイル」の後日談 - nikkeibp.jp - 医療
ま、内容はテクニカルな話なんだけど。(海外では大きく報道されている。)
映画のあと、インチキ療法とか、誇大視されているとか、医学的には証明されていないとかいろいろあったわけですが、けっこう肯定的に受け止めてよろし、と。
ロレンツォのオイル 命の詩
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オーグスト(ニック・ノルティ)とミケーラ(スーザン・サランドン)のひとり息子ロレンツォが難病の副腎白質筋ジストロフィーに冒されてしまった。専門医(ピーター・ユスチノフ)にも見放されたわが子の命を救うため、夫婦は何の医学的知識も持たないにもかかわらず必死の努力の末、ついに新薬“ロレンツォのオイル”を生み出していく…。
医学生出身で「マッドマックス」シリーズで知られるジョージ・ミラー監督が、この衝撃と感動の実話を映画化。いわゆる難病映画にありがちなお涙頂戴的な要素は薄く、むしろ病気に向かって闘い続ける夫婦の闘争本能のドラマとでもいうべき、異様なまでの迫力に満ちた秀作である。夫婦役の二大名優の、これがベストともたとえたくなる熱演にも拍手したい。(的田也寸志)
はてなマップというかGoogle Mapというか、緯度経度が合わない
どうなってんだろ。
仕様変えたげ。
MapFanとかの緯度経度とも違うし。
関連
はてなQ 抗酸化について詳しく説明してあるWEBアドレスを教えて下さい。
マジレスにすると無理かも。
はてなQ 【ちょっとした特技】
あなたの日常生活や趣味、仕事上でのちょっとした特技を教えてください。
例:(↓こんな感じでお願いします。)
私は小学生の頃、両手で布団を三つ折りに畳むのが面倒だったので、片手で畳めるようにに練習した結果、上手く出来るようになりました。もっと練習した結果、今度は立った状態のまま、つま先で布団を跳ね上げることによって畳めるようになりました。ちょっとした特技です。
※あくまで「ちょっとした」特技でお願いします。あまりスゴイものはダメです。
卵を片手で割るなんぞ簡単。
多元情報処理はお得意。タイピングしながら雑談して資料を読むとかも…それはさすがに誇張ってか嘘になるか。
たぶん、可聴音域が広いので奇妙なことに気が付く。たとえば、鳥とか発見する。家にいて雨とかわかる。
臭いに敏感なので100m先の喫煙がわかる(不幸)。
足での豆拾いなんぞ楽々。
機関車トーマスの目回しができる。
手の指の第一関節をそれぞれ独立して曲げることができる。ぐわし、なんか簡単。
では、とっておき…口笛でホイッスル音が出せる。
あまりスゴイのでいうと、人類が発声可能な音声は全部出せる…はず。アフリカ語の音声とか楽々。発声しながらティック(舌によるパチンという音)を出したり、息を吸いながらの「バ」の音とかできます(ベトナム語とかにあるはず)。
またまたうだうだした話なのだが…過去と今と心と思いと…
ま、簡単に言うと、こういうこと。
命題A 「私は20歳のときA子を愛していていた。」
命題B 「私は今A子を愛していない。」
命題論理というのは、時間も様相も含まれていないので、これらは命題論理の問題ではない。時間と様相を含めたとすると、ぐちゃぐちゃになるだろうが、そんなことを扱うわけではない。
もっと、単純に、心の問題だ。
命題Bが今私に真であるとして、命題Aが同時に真であることには、普通、矛盾はない。
問題は、命題Aなり命題Bなりを、私は、どのように「知る」のだろうか、ということ。
命題Bは、自明であるかのように見える。
ので、命題Aを眺める。
命題Aは、「「私はAを愛している」は20歳のときに真、というのを今私は知っている」という構造を持っている。
そして、私は、今、回想のなかで、20歳の時をイマジナリーに生き直し、それゆえに、それが真であると覚知する。
ということは、それは、今の真なのではないのか。
うまく問題の全貌が表現できてない。
うまく形式的に扱うことができそうにないか。
私は、私に関わる過去の出来事が真であると、今、知るのだ。
それはなぜなのだろう。
私はなぜ過去の私に関わる出来事を真であると知るのだろうか?
それは今その時をイマジナリーに生きているからだ。
問題は、命題Aと命題Bの差異にあるものは、時間ではなく、そうしたイマジナリーな思いのありかたにすぎないのではないか。
別の言い方にしよう。
実は命題Aは不可知なのではないか。
「「私は20歳のときA子を愛していた」かどうか、今の私は、知り得ない」のではないか。
または…
「私は今A子を愛していない」という命題は、実際にはどんな意味があるのだろうか?
たとえば、「ここにブッシュ大統領とビンラディンがキスしている写真が存在しない」という命題はなんの意味があるのだろうか?
なにかがないという命題は、かつてそれがあったを包含しているのだろうか。
そしてかつてあった、という命題は、なにによって支えられるのだろうか。
つまってきたのでエントリ変えよ。
感情が生起されないとき私にとって真である体験は存在するのだろうか
しないのではないか。
そして、その感情は、つねに今という時間の否定なのではないか。
私は、いろいろな感情のなかに微睡みながら、今という時間を恐れているのではないか。
というのは、未来とは無だ。その先に私の死が延々とある。
私は未来には死んでいるが、過去には生きている。私の感情の生起とは死の恐れではないのか。
うまくいかないな。
やめやめ。
過去というのは今の感情のありかたなのではないか…
というか、私の体験に関わる命題の真偽というのは私の今の感情なのではないか。
私はブルーモスクに入ったことがある、というのは、私の視覚なり嗅覚なりある記憶の総体が想起されているようでいながら、懐かしいなりの感情が共に生起している。
感情の生起なくして、過去の記憶は私に生起するのだろうか。
「1957年ソ連はスプートニクを打ち上げた」という命題は私にとって真か?
私は1957年に生まれたがそれを経験していない。
およそ、私にとって真であるというのは、私の経験の、ある種の明証性のようなもの、というか、私自体を実に発生させている感情そのものではないか。
存在とは感情である。
これは、きちんと説明するのは難儀だが、実は、ハイデガーが「存在と時間」で言っていることと同じではないか、と考えている。
世界内存在というのは、私の体験の時間制を保証するものだろうか。
うーむ。
時は流れず、時間は存在しない…大森が言うように…
過去は今の私が作り出した、語り存在、でしかない。
では、語り存在の真を私はどのように知り得るのだろうか。
大森は、ここのところで、インチキをしているような気がする。
すべてを語り存在に押し込むことで端から真偽を放り出そうとしている。
しかし、大森やヴィトゲンシュタインやあるいはフッサールが依拠したように、生活世界の人の実際のありようとしては、語り存在の明証性は、曖昧なものではありえない。
「私は20歳のときにA子を愛していた」は私にとって自明な真であり、如何なる検証も必要としない。
もっとも私はそれを他者に、嘘を物語ることはできる。
またそれがある公的な場でとらえられ(裁判とか)、ある公的な、共有的なファクツとして認定されうることはある。しかし、体験の明証性はそれに反しない。
「殺人犯と断定されても、私は、人を殺していないことを確信している」という構図は成り立つ。
語り存在としてフラットになるものではない。
そして、語り存在の明証性とは、やはり、感情なのだ。
およそ、私が生きていると自明に思えるのは、私が感情を持ち、この世界に欲望との関連を置いているからにほかならない。
生活世界(Lebenswelt)が欲望のなかで創出されるというこは、つまり、私の存在が感情から生起するということだ。
そして、同じように過去は、感情から生起するのだ。
では、なぜ過去という世界は今の生活世界と分断されていることが自明であるように認識されているのだろうか、人間の心の構造において。
私は世界に欲望を持つという世界のありかた生活世界(Lebenswelt)が自明であるとして…
なぜ過去は感情に色づけられて今生起するのだろうか?
およそ過去の感情、過去を真と確信させる感情とはなんだろうか?
私は、過去において、ある物を得、ある物を失う。
それが眼前の物体であれば、私の過去とはその存在の由来語りとしてある。が、それがたとえ眼前の物であっても、それは常になんらかの私の欲望とは関係するだろう。
私が過去に得るもの失うものとは、つまりは、ある体験だ。たとえば、「愛」。
ということろで精神が集中できなくなったので、中断。