またまたうだうだした話なのだが…過去と今と心と思いと…

 ま、簡単に言うと、こういうこと。
 命題A 「私は20歳のときA子を愛していていた。」
 命題B 「私は今A子を愛していない。」
 命題論理というのは、時間も様相も含まれていないので、これらは命題論理の問題ではない。時間と様相を含めたとすると、ぐちゃぐちゃになるだろうが、そんなことを扱うわけではない。
 もっと、単純に、心の問題だ。
 命題Bが今私に真であるとして、命題Aが同時に真であることには、普通、矛盾はない。
 問題は、命題Aなり命題Bなりを、私は、どのように「知る」のだろうか、ということ。
 命題Bは、自明であるかのように見える。
 ので、命題Aを眺める。
 命題Aは、「「私はAを愛している」は20歳のときに真、というのを今私は知っている」という構造を持っている。
 そして、私は、今、回想のなかで、20歳の時をイマジナリーに生き直し、それゆえに、それが真であると覚知する。
 ということは、それは、今の真なのではないのか。
 うまく問題の全貌が表現できてない。
 うまく形式的に扱うことができそうにないか。
 私は、私に関わる過去の出来事が真であると、今、知るのだ。
 それはなぜなのだろう。
 私はなぜ過去の私に関わる出来事を真であると知るのだろうか?
 それは今その時をイマジナリーに生きているからだ。
 問題は、命題Aと命題Bの差異にあるものは、時間ではなく、そうしたイマジナリーな思いのありかたにすぎないのではないか。
 別の言い方にしよう。
 実は命題Aは不可知なのではないか。
 「「私は20歳のときA子を愛していた」かどうか、今の私は、知り得ない」のではないか。
 または…
 「私は今A子を愛していない」という命題は、実際にはどんな意味があるのだろうか?
 たとえば、「ここにブッシュ大統領ビンラディンがキスしている写真が存在しない」という命題はなんの意味があるのだろうか?
 なにかがないという命題は、かつてそれがあったを包含しているのだろうか。
 そしてかつてあった、という命題は、なにによって支えられるのだろうか。
 つまってきたのでエントリ変えよ。