過去というのは今の感情のありかたなのではないか…

 というか、私の体験に関わる命題の真偽というのは私の今の感情なのではないか。
 私はブルーモスクに入ったことがある、というのは、私の視覚なり嗅覚なりある記憶の総体が想起されているようでいながら、懐かしいなりの感情が共に生起している。
 感情の生起なくして、過去の記憶は私に生起するのだろうか。
 「1957年ソ連スプートニクを打ち上げた」という命題は私にとって真か?
 私は1957年に生まれたがそれを経験していない。
 およそ、私にとって真であるというのは、私の経験の、ある種の明証性のようなもの、というか、私自体を実に発生させている感情そのものではないか。
 存在とは感情である。
 これは、きちんと説明するのは難儀だが、実は、ハイデガーが「存在と時間」で言っていることと同じではないか、と考えている。
 世界内存在というのは、私の体験の時間制を保証するものだろうか。
 うーむ。