幻想論メモ
死後の世界を信じてますかとか仮に聞かれたとして。
答えは決まっていて、信じてない、です。
のっけから余談だけど、左翼とかの人がけっこう、死後の世界とか死後の生命みたいのを信じているので不思議だなと思うことが多い。さらについでにいうと、靖国とか新興宗教なんで私はまるで関心ないし、信じてない。英霊って修辞ではあっても存在しませんよ。左翼も右翼も霊の信仰者というのが面白い。
で。
それはそれとして、人の心の構造というか、意識の構造というのを、独我論的に突き詰めていくと、あるいは意識現象として突き詰めていくと、輪廻転生とか死後の生命とか死後の意識とか、そんなものがどうもありそうだ。
関連⇒「多宇宙と輪廻転生―人間原理のパラドクス(三浦俊彦)」読んだよ - finalventの日記
ありそうだというのは、客観的にあるというのじゃなくて、人の心の仕組みとしてありそうだ。
で、そういうのが自分にあるかというと、意識の基底に埋め込まれているなという感じがある。
というか、そういう考察してわかったのだけど、こういうことに無自覚だと死後の世界を信じる左翼みたいなのが出来てしまうのだろう。
で、なんかようやくわかったのだけど。
わかったというのは独我論の問題だが。
他者の意識というのはわからないけど、わかるように行動するという、いわゆるヴィトゲンシュタインの言語ゲームみたいなものだが、これって、実際の他者意識とのインタラクションで見ると、言語ゲームが成立するというのは、了解のコミュニケーションが成立するというより、他者の場というゲームを了解するということなのな。
なので、近代世界というはヴェーバーのいうように魔術からの解放を基礎にしているから、神もないし、死後の世界も輪廻転生もない、というか、「ない」というコミュニケーションゲームなのだな。
それを客観世界とするという命名のゲームでもあるし。
その場合、科学とはなにかだけど。これって、いわゆる前期ポパー的な反証可能性みたいに捉えたとして(ちなみに後年のポパーはそう考えていない)、それって、ようするにこの世界についての了解事項の言語ゲームなわけだ。
というか、だから、センスデータ論でほころびができるし、ファイヤアーベントみたいな申し立ても構造的に成立してしまう。
ちょっと言い過ぎに言うと、科学というのは客観世界という了解の場を作るための道具というかそのコミュニケーションに従属しているということかな。まあ、これは言い過ぎ。
逆にいうと、そうした他者との場ではない部分の人の意識のなかに、死後の生命があろうが輪廻転生があろうが、それってけっこうどうでもいいことというか、つまり、それが個人幻想であり、どうやら個人幻想というのは、死の幻想的な了解としていいんじゃないか。
というあたりで。
どうも吉本隆明の共同幻想・対幻想・個人幻想、という意味での個人幻想ではないな。彼は死を共同幻想と見ているし。
しかし、吉本がそう見ているはいいとして、死というのは彼の個人幻想においてはどのようなものなのだろうか? どうも吉本のいう個人幻想というのは近代個人のルールと同義のようにも思える。
私の以上の理路からすると、個人幻想のなかに死が含まれていて、また、共同幻想にもまた死が埋め込まれている。
そして、共同幻想という場合、いわゆる国家=宗教の幻想というのと、貨幣のような幻想や、魔術(呪術)から解放された近代世界という幻想というのは、別層ではないか。
つまり、幻想の領域というのは、近代世界(科学客観世界)という幻想、国家・宗教幻想、個人幻想というしくみなっていて、そしてそれぞれ死の意識の配分があるのではないか。
というあたりで、対幻想、つまり性の幻想はどうかというと、性においては、他を自分のように見るということの枠組みに自然な他者への欲望がある。これは、客観と個人とも違う奇妙な幻想領域であることはたしかだな。
とはいえば、バタイユが見ていたように性の幻想のなかに死の乗り越えへの希求があるというのは確かだろうから、むしろ、対幻想から共同幻想と個人幻想が派生するのだろう。まあ、そのあたりは吉本もそう言っているわけだが。