昨日twitterの補足 自我と反復強迫

 いわゆる心の問題は自分がわかる範囲で言えば、心理的な問題とメディケアが必要な実は身体的な問題がある。後者は無意識的な問題と言ってもいいかもしれない。そして、前者の心理的な問題の多くは普通に人生の問題ではないか。その、人生=課題の構図はどのような仕組みになっているか?
 人間の生存の過程、つまり、人生というのは、対社会的(対性関係を含むとして)、存在の生存戦略に自我を採用している。つまり、自我の戦略の視点から人生の諸問題を見ることができる。
 基本的には、自我の戦略とは防衛である。そして防衛されるべきは対社会・対世界であると言える。が、それは幻想過程を含んでいることと、もう一つは生物としてのライフサイクルのチャレンジがある。ライフサイクルチャレンジの問題は非常に大きい。いわゆる性の問題は、ライフサイクルチャレンジと対社会と自我の防衛戦略の3項でモデル化できそうだ。たとえば、性欲とされる幻想と身体のリンケージの背景にあるものはライフサイクルチャレンジ、つまり、メーティングせよ、である。
 だが、ライフサイクルチャレンジの問題はここではあえて捨象する。
 自我とは、ごく通説的にも理解しやすいが、防衛の反応によって形成されたものだ。
 ぶっちゃけた言い方をすれば、自分という意識は、何かを隠蔽・非知覚化するための機構だとも言える。また、その機構を幻想によって保護できない介在(interevention)があるとき、防衛機能が働く。通常は、暴力の形態を取る。これは、他の類縁の動物でも同じでそのレベルの根深い機構がある。
 だが、暴力は、具体的には情動に引き起こされ、つまりは、感情の異常がある。
 実は、感動なども、その防衛機構だ。
 人生の問題とされるひりつくというか絶叫感を伴うあたりに人生の謎みたいのはあるとも言えるのだが、案外単純な自我の構造に由来する。
 感情の問題が自我の防衛機構であることが顕著である場合は、非理性的な条件反射(反復強迫に近い)ものが、ほぼ必ず、存在する。ネット用語的には「スイッチ」というやつだ。
 感動のスイッチというのは自己防衛の最終部に近い防御機能であり、そこに多分に他者への怒りがしくまれている。あるいは、善や正義の概念がこの感動で論理的な装いをしている。
 情動が条件的になっているとすればほぼ洗脳に近い状態だとも言える。誰かという主体がアンカー(アンカーリング)しているのではなくある種の自我防衛機構が作り出してしまうのだろう。NLPはろくでもないけどこんな感じ⇒アンカーリング
 ゲシュタルトセラピーでは、こうした反復強迫的な問題について、「経験を完成させろ」という対応を示す。パールズならそれができるだろうが、パールズほどの人間でなければ、こうした対応は心理的に危険だろう。ただし、この提言には深い意味があり、強迫は後期フロイトのいう死の衝動ではなく、経験完遂として理解されている。
 経験完遂とは何か? どのように自我の防衛と関わるのか?
 人生のプロセスで強迫反復が出現する、おそらく神経症でない人間でもマイルドに人生の意味というのは強迫反復の構図を取っている。とすれば、人生の意味そのものが経験完遂として見ることができる。
 そこで難しいのが、強迫(神経症)というのは、自我防衛強化のプロテクトと経験完遂の両義性を持っていることだ。
 もし経験完遂だけの意味を持っているなら、人生は、単純に、ユングが見なしたように魂の修行場のようなオカルト的な意味が付与されうる可能性もある。もちろん、修行といったテロス(最終目的)があるわけではなく比喩であるとしても。
 しかし、経験完遂ではなく、その過程自体が強固な自我防衛強化につながってしまう。たとえば、青年にありがちだが、「心理的に強い人間になろう!」とし、各種のチャレンジを行う。これはすでに倒錯を含んでいる可能性が高い。
 とはいえ、こうした矛盾の試行錯誤こそが人生の意味に見えるという内的に強固な了解はなぜ存在するのか?
 フロイトが強迫を最終的に死の衝動(しかも歓喜として受け入れる)としたのは、死よりも、人生が経験完遂への衝動によって駆動されているからだろう。だが、繰り返すが、駆動は防衛強化のプロセルにもなりうる両義性があり、自明な救いなるものは原理的に存在しない。
 自我はこの両義性のメタ的なフレームワークダブルバインドされる構造でできているとすれば、必然的に強迫となる。
 この状況は大乗仏教でいう無明にも近い。そして仏教の比喩でいうなら、この苦から菩薩が生まれるとしたプロセスなのかもしれない。だが、それは間違いだろう。
 いずれにせよ、現象面は明らかだ。つまり反復強迫と自我の情動的なパターンである。そしてそのパターンに基軸を持つ精神的なエネルギーというのはやはり一種の病理なんだとしか言えない。
 しかし、なぜ人はこの無明とも言える構造が抜けることができないのか。抜けることは、なるほど、自我の否定だろうか。しかし、自我の否定への欲動は死=涅槃の構図を取ることも必然で、恐ろしい問題を孕み込む。