晴れ

 よい天気だ。
 昨晩はくったり疲れて寝た。朝起きづらく、しばらく坐禅をした。
 夢は忘れた。思い出せないものかと意識を下げていっても出てこなかった。夢は見ているはずだし、そこに「私」がいるはずなのに、思い出せない。
 私という意識において、この私であるというのは自明のようだが、夢のなかの私もその時間の意識状態においては私だ。その私がこの私であるということは想起によっている。そしてこの私というのは、いわゆる覚醒時における想起の体系によっているのだが、が、というのは、この想起の体系は、夢のなかの私のそれとは異なる。おそらく、あの私とこの私とは想起の体系が違うのだろう。
 近代人、あるいは古代人ですらそうかもしれないが、人は、この覚醒の世界に生きていて、その想起の体系の真実性を世界に求めている。少し飛躍するが、覚醒時の想起の体系というのは、この世界の一貫性の体系であり、この世界の一貫性のような意味付けこそが「私」の仕業というかもくろみなのだろう。そして人は、この世界が物質的な根拠性と、他者という根拠性を持っていると確信し、夢のなかの私は、そうしたものの派生であると考えることにしている。しかし、その境界はそれほど確としたものではない。そう言えるのは、ここも少し飛躍するが、この物質世界の一貫性、客観世界のように見えるものは、実は、他者の一貫性の派生からできている。つまり、「私」という個我(独我)が他者とのコミュニケーションの妥協として譲歩した体系であり、なんらの理由でその譲歩が個我の内在的な意味体系を崩壊するようになれば、その個我とともに、他者と世界は崩れ去る。
 他者と世界が崩壊するという意識の経験というのは、それほど多くの人に訪れるわけでもないが、そう少なくもない。そして一度のこの他者と世界の崩壊の崖の淵に立った人は二度とそこを忘れることはできない。
 これらの構造がすべて死と輪廻に関係している。言うまでもないことだが「輪廻転生がある」と言いたいわけではない。私という意識に潜むこの奇っ怪な構成はなんなのだろうということだ。が、こうした問題は、およそ崖の淵を見たことがない人は意識が瀕する臨終までわかることはないのだ。というか、その契機もなく死ねる人々たちだ。