認知科学?
⇒蒼龍のタワゴト-評論、哲学、認知科学- - 認知科学はすでに終わってる…?
認知科学ってなんだろ?
認知心理学ならある程度わかるが。
文脈を見るに、認知科学=認知心理学、でよいのか。
でも。
今や、認知系の研究者の多くは応用研究に走っている。心理学は学習科学、言語学は第二言語習得、人工知能は(認知モデルとは無関係な)実用的ソフトウェア*3、脳科学は神経工学*4、哲学でも神経倫理学とか*5。
とあるし、認知科学というのが存在するのだろうか。
隔世の感。
個別に言語学でいうと、言語学は「言語学は第二言語習得」ってことは未来永劫ないと思いますよ。
言語学はチョムスキースキームでは認知心理学の一分野となるはず。まあ、どうなるんでしょうかとは思うが。
一般論的に言うと。
認知心理学でも言語学でも、基本的に、マシンインプルメントできる部分が工学としてわかりやすいのであって、それ以外の議論は、ほぼ数学みたいなもので、数学ってなんの学問?そのれは心理的実在云々みたいなことになる。
まあ、ようするにたかが学問でよいというのが案外チョムスキーの真意だったりして。
おフランス思想については、基本的、コジェーヴとヘーゲルの問題。っていうか、それに後期ハイデガー(ニーチェ的)が関係しているベースに、どうでもいいようなレトリックが入ってしまってなんだかになっているわけで、大筋では、コジェーヴとヘーゲルの切り離し、つまり、ヘーゲルの再評価の問題をきんとやる、それとハイデガーを処理するということだが、前者は地味にできるけど、後者はよくわからん。
⇒アレクサンドル・コジェーヴ - Wikipedia
20世紀フレームといってもいいと思うけど、基本的にマルクス主義的な科学観というか、素朴実在論とその懐疑としての言語論があったけど、ハイデガーはむしろ素朴な実在論に近い。で、実在論って言うのはまさにハイデガーが示唆しているようにスタティックなものではないわけで、むしろベルクソンのいう実在に近い。ま、ここでベルクソンまぜるといかんのだが。
れいのID論とかも、日本人だとつい政治的がフレームワークになるし、とくに日本だとあれって統一教会でしょで終わってしまうわけだけど、個別に産出されているファクトとフレームはそろそろダーウィン的な機械論的生命観を転換させるかもしれない。というか、そこにこっそり実在が顔を見せている。
きもい世界なわけだが、もともとハイデガーだのベルクソンというのはそーとーにキモイ哲学でもある。