あまり文献にそって考えているわけではないが

 最近、自分が20年以上考えてきた、哲学的な問題にちょっと解決が見つかりそうなので、ときおり考えている。どういう問題なのかというのを説明するのがめんどくさいし、哲学をプロパーにやるとすでに終わっているよその問題ということにもなるのかもしれない。
 ま、でも、ぶっちゃけ言うと、主観の根拠性と、世界の齟齬の理由はなにか?ということ。 まあ、独我論なんだけど。
 大森荘蔵から少しづつ自分も離れつつあるのか、しかし、結局独我論というのは抜けることができない前提なんだというとき、独我の中に現れる他者や世界とはなんだろ?
 ここで最近考えているのは、予測とルールということ。
 はてななんかでも前期ポパーと言っていいかと思うけど、科学的言説の基準に、反証可能性が一人歩きしているっぽいけど、反証可能性というのは、まあ、それなりに役立つ。
 で、この場合、世界にはベルクソン的な時間は存在しない。つまり、反証可能性というのは、時間の再現性を含んでいる。という点で、科学そのものが、世界に対する賭けの構図を持っている。そして、賭けにはいっさいの根拠性がない。帰納は知識に到達できない(このレベルがわからない人が多くてうんざりする)。神が明日世界を終わりにしてもなんら不都合はないというだけでキチガイ扱いされる云々。
 で、それはそれとして。
 この独我と、そこに映える、いかにも「客観的」な世界の問題、ちょっと端折るとセンスデータやセンスのパラダイムみたいなものは、反証可能性というか、実験によって破棄されうるというところで、なんとなく実在の幻影を見やすい。実証できたものだから実在ということで、ここで「時間」というものの隠蔽というか、循環的に時間がモデル化されてしまう。
 で。
 この世界のこうした構図。および、人が科学を選択しなくては向き合えない、あるいは実在をでっちあげずにはいられないというのは、実は、独我と他者の構図の派生であって、実は独我論と実在の問題ではないのな。
 ぶっちゃけ。
 独我が他者と世界という場で出会うとき、他者という奇っ怪ななにか向けて、独我ではないルールにおいて独我が対応するという生のプロトコルでしかない。その延長に科学とか実在とか出てくるわけで、ちょっと大風呂敷にいえば、西洋近代とかいうのは、その他者のありかたの変化からおきた付随なんでしょう。
 で、他者とのルールということでいわば暫定的な「信用」のプロトコル、というのがあるとき、これは実際には、独我のルールとその生存の苦のプロトコルというふうに分解している。
 というあたりで、ちょっと疲れてきたので中断。