添削はしないけどちょこっと
それまで、意味の担い手は「人間」であり、ソシュールと同時代の人ですがたとえばフッサールは『イデーン』において人間の意識を意味の根拠として見出したのでした。しかしソシュールの発想ではもはや意味は人間によって担保されるのではなく、言語という差異の体系が生み出す効果でしかないということになります。ここに、ソシュールによって歩み出された根本的な脱人間化の契機があった、とさしあたり述べることができるでしょう。
まあ、あまりテクニカルな話をしてもなんだが、議論の基礎になっている、この↑あたりが、ちょっと、違う、と・思・う。
フッサールについては、「イーデン」がそう読まれるのはしかたないかとも思うが、「人間の意識を意味の根拠として見出した」をフッサール思想としていいかは若干だが疑問。むしろ、後期の生活世界につながるかと思う。また、それは「根拠」性の議論かどうかも。
で。
「意味は人間によって担保されるのではなく、言語という差異の体系が生み出す効果でしかない」だが、これは複雑に間違っていて、説明がむずかしい。
まず、意味(signified)と意味作用(signification)が混乱している。
そして、たぶん、価値(value)と意味(mening)が混乱している。
それ以前に、差異の体系は、音素という記号の体系であって、意味の分節の体系ではない。もっとも、音素列として表出される単語が意味の分節を担うと言えないことはないが、そのあたりはホワーフ仮説的な問題でソーシュールはそこに踏み込んでいない。ただ、ソーシュール的な思索の跡はむしろ後期アナグラム研究に見られる。
で、ヤーコブソンの音素研究は、ソーシュールの差異の体系、つまり、弁別と相補性の記号学として示したのであって、特に、思想性はない。このあたりは、ピアジェが整理のような混乱のようなものを提示している。構造主義というのは一義には記号学方法論に過ぎない。これをレヴェ・ストロースが親族構造に援用してみせたのだが、この研究がどれだけ実証的か疑問の上、その解釈をもって構造主義というのが出てきたのだが、この時点で、すでにソーシュールとは方法論上のつながりしかない。
ソーシュールは意味作用や社会における人間の言語活動をパロール(parole)として捉え、ラング(langue)から捨象している。ちなみに、デリダのパロール(parole)はエクリチュール(ecriture)の対応であって、基本的にデリダはソーシュールがまるでわかっていない。
また、ソーシュールは言語活動をランガージュ(language)としていて、これはラングとパロールを取り敢えず含む、いわゆる、ことば、というものをとらえている。
ただ、このあたりは少し私の理解も曖昧。
なので、少し曖昧になるが、総じて言えば、意味として語られる意味作用は基本的にはソーシュール的にはパロールを元にしたランガージュの機能としている。ただ、その中にラングも含められているのだが、それはむしろ、マインドの関連だろう。このあたりはチョムスキーの直感が正しい。
いずれにせよ、ラングが意味作用を生み出すわけではない。
結局のところ、ソーシュールの思想にはラングを動かす主体が、ルールなのか、マインドなのかが曖昧になっている。ルールだとすると基本的にはヴィトゲンシュタインの思想に近いし、マインドとするとチョムスキーのそれに近い。
ルールであれば起源は本質的に回避されるがしいていえば、種の特性になるだろう。マインドであるとすれば、それこそが非個人性の構造と呼べるもに近くなるが、いずれにせよ、それが意味作用を持つわけではない。
とま。
ちょっと言葉がきついので、「そんなこともわかっとらんのかぁヴォケ」みたいに聞こえたらすみません。そういう意図はないです。
単純に言えば、ソーシュールというのは一種の魔窟みたいな思想家だし、フランスの構造主義というのは、単純に、実存VS構造、というスキームで、一種の時代思想と見た方がいい。そこで援用される記号手法の源泉の一つにソーシュールがあり、ヒルベルトがあるということで、この2巨人に突っ込むと、フランス構造主義というものが、かえってボケてしまう。
ちなみに、実存VS構造、というとき、基本的な問題は、サルトルVSフーコー、あるいは、サルトルVSコジェーヴ、なんで、そのあたりの、経緯や、実際的なフランス社会の社会運動とソビエトとの関連があり、いわゆる思想側で浮き出たエクリチュールを追っているとよくわかんなくなる。
具体的にはこのあたり⇒五月革命 (フランス) - Wikipedia
それと⇒プラハの春 - Wikipedia
さらにその根⇒ハンガリー動乱 - Wikipedia
(すごいべたに言うと、実存VS構造というときの、構造とはソ連ですし、実存とは思想者です。)
で、その思想的な補足なんだが、サルトルVSフーコー、あるいは、サルトルVSコジェーヴ、の背景にあるのは、マルクスとハイデガーなんですよ。
その意味で、マルクスVSハイデガーというのを様々に変奏したのがフランス現代思想で、でも、それは前世紀あたりですでに終わっていると思う。
こうした哲学は、フランス社会の問題が必然的にタスクとしたものなので、その現実のコンテクストからどう考えるかということなんだが、どうしても日本の知識人とかはデリダとかサイード(米だが)とかそういう、しいていうとアンチテーゼ的なエクリチュールから入ってしまう。
このズレは、コソヴォ紛争の時にけっこうやったんだけど、なんかあれが雲散霧消したあたりで、日本でもいわゆる思想的な左翼も消えてしまった。
でと。
だらだらするが。
ずっこけでいうと、ネオコンというのは、そういう思想の一つの区切りとしてラディカルな理想主義として出てきた。ただ、これはむしろ英米圏というかローマ帝国的大英帝国的な歴史主義のカリカチャでもあったのだけど、この壮大な思想運動も結局失敗してしまった。その意味で、ポスト・イラク戦争というのはラディカルな理想主義の終わりでもあり、別の言い方をすると同根のモデレートな理想主義であるオレンジ革命も失敗。また、アフガンが失敗したことも思想的な意味がある。そのあたりで、こういうゴリっとした理想主義が終わってしまったわけで、日本の左翼とか米国バーカバーカと言っているけど、フランスの知識人は屈辱と再構築に苦悶しつつ、英語を習得するというか英米圏の思想を吸収しつつある。
ただ、私が見えないだけかもしれないけど、こうした筋で見ていくなら米国側からこれらを越えていく思想が出てこなければいけないのだけど、見えないという感じがする。案外アカデミズムやネオコンが未だに思想レベルで使えるということなのか。
さらにずっこけだけど、ロワイヤルは場合によってはダルフール危機に関連して北京オリンピックをボイコットすると言い出している。これはけっこう英米圏でもフランス知識人でもけっこうマジになっている。このあたり、日本で受け止める知識人がいなくなったなぁ、砂漠だなあという感じがする。
追記
応答を戴きました⇒生きてみた感想 - 困った
僕の印象だと、むしろなにかコメントをするという動機が先にあって、そのあとでかつてかじったことのある知識をちょこちょこ張り付けてみた文章、という風にしか読めませんでした。
了解しました(というかそう見られて別に不本意ではないです、というか略)。
余計なことを書きすぎたのかもしれません。基本的には、
1 意味(signified)と意味作用(signification)が混乱している。
2 価値(value)と意味(mening)が混乱している。
3 差異の体系は、音素など記号の体系であって、意味の分節の体系ではない。
ということでした。
あと失礼にならないように。ごくテクニカルな指摘としたいのですが。
それと⇒生きてみた感想 - ラカン、ソシュール、デリダ
こうして言語的な意味というものが、シニフィアンの恣意的な戯れの効果として生み出されるシニフィエとして捉え直されるわけです。シニフィアンのあいだのもろもろの差異が、それを通して指し示される現実をさまざまに分節していく、というモデルです。
それはソーシュールの思想にはなく、ホワーフ仮説に近いものであり、まったく恣意的な言説というか、科学としての言語学なりの範疇を越えます。
⇒サピア=ウォーフの仮説 - Wikipedia
少しくどいのですが、「シニフィアンの恣意的な戯れの効果として生み出されるシニフィエ」という主張はソーシュールにはなく、かつそれが科学的方法論としての構造主義を逸脱しています。
もひとつ。
ソーシュールにおける共時性はラングの問題であり、時間つまり通時性は歴史言語学、つまり比較言語学を指します。特に後者の通時性はむしろソーシュールが生きていた時代に認められたヒッタイト語のhの分析に関連します。