続きのような話…隠れるということ

 これの続きっぽい⇒http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20050801/1122859862
 この手の話はうまく言えないのだが、すでに48歳にもなったせいかときおり思うのだけど、若いころはどうしても抑えられないような衝動というかなんかある。性欲とかも関連するのだろうけど。
 で、それって、なんであれ、人とのつながりや人との軋轢を生み出す。本当は愛やコミュニケーションが欲しいのだろうけど。
 で、それってうまくいかないようにできているような気がする。
 うまくいく人もあるのだろうとは思う。なんというか、つがいの鳥のようにきちんとメートを見つけて生きていくような。
 ただ、衝動の強い人はただ、周りの人に挫折するだけなのではないか。
 さらに言うと、大人というのは、若い人の知恵とか体力とか性的な魅力とか…を、ちゅーっと吸って生きているものなので、ようするに若い人なんて大人の餌でもある。なんであれ。
 挫折すると、なんというか、あー、人間っていうのは、なんにも通じないものだというか、孤独だなというのが磨きかかる。で、そこで安定するわけでもないので、やっぱ苦しむしかないのではないか。
 ほいで、でも、それが十年も続いて三十半ばくらいになると、あれ?自分ってこういう人なのかというののが見えてくることが多いのだと思う。ま、親とか死ぬと自分の限界がくっきりするもの。人に裏切られたりとかもそ。裏切るというのもある。
 この自分の奇妙な再発見というのは、隠れていたものが、自分に開示されるということで、そして、それゆえに人との関わりでさらに隠れていくなにかのように思える。
 そして、たぶん、愛というのはそういうなにかに関係している。土居健郎が言っていたが、愛の本質は隠れることにある。ちょっと言葉たりないのだが。気になるなら「Amazon.co.jp:本: 表と裏」とか読んでみて、というか、うまく読まれない本でもあるけど。古書が安いなぁ。
 ちょっと別の側面がある。
 罪ということだ。それを隠さずには生きられないというか、そういこと。
 いや、多数という点でいうなら、許せないということのほうが多い。けっこうな人が人生の被害者だと思っているので(私もそうだが)、あいつだけは許せないとか、こんな不合理な世界は許せないと思って生きている。凡庸な人生ではある。
 そういうのと違って、自分が自分にとって現れる=世の中から隠れる、というとき、罪の問題はきゅーんと出てくるように思う。ちょっとキリスト教っぽいのだが。
 しかし、実感としては、単純で、それがあるゆえに死にきれないようなつらさだ。もっともその迷路のなかで自罰して死ぬ人も少なくはない。あるいは、人生そもののが自罰というストーリーになる人もいる。
 これはむずかしい。「罪」というのは、キリスト教的に語られがちだけど、本当は現代でもすごい難しい課題なのだろうと思うし、大人の顔には、それがなんとか嵐を生き延びた人なら、罪の刻印のようなものがある。
 つらい人生というのは、しかたないのかなとも思う。救いはないのかもしれない。ただ、奇蹟としかいえないようななにかが人生にはあると信じている、私は。
 だから苦しい人もそういう奇蹟を待望しなさい、とはとうてい言えないのだけど。
 それでも、人生の節目節目に小さな奇蹟の痕跡を見ることは可能だろうし、そういう不思議なメッセージを自分の人生の意味にしていくのは取り敢えずの生き延びる知恵ではあるだろう。
 ただ、ひどいことを言うようだけど、それでも人生は無意味でもあるかもしれないし、救いなんかないのかもしれない。当面生きるためにはなんでもかなぐりすてて必死というだけのことかもしれない。
 ま、当面生きているのを続けていけば生きているものですよ。人間そんなに頭で生きているものもないし、昨日の私のように天丼を求めるだけが天国と地獄だったりする。そんなくだらない存在でもそっといてよいかなというあたりです。