ぶくまより 太宰治とキリスト教
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学部の卒論らしいので突っ込みはなし、と。
指導教官が私くらいの年代か、それより上か。
この問題は、別段、太宰に限らず、日本浪漫派とかでも見られるし、小林秀雄などにも。それこそ、「西方の人」とかも。
これらはある意味で内村鑑三とか新渡戸稲造とかまあ、そのあたりからの時代風景でもある。というか、マルクス主義とキリスト教というのは、戦前の文学にとって大きな、まあ擬似的な、課題だった。
その突っ込みはしないといいつつ、まあ指導教官の思いを少し察するのだが、卒論とはいえこういう、論立てでよかったのかちと気になる。と考えるに、そのあたりの指摘がふくまれてないのは、私より上の世代の教官かべたな日本的なキリスト教徒か、のわりに遠藤と世界化みたいなのもあり。
それはそれとして、人間失格とキリスト教からそれるが。
物語の最後、「あとがき」において全くの第三者であるバアのマダムに「私達の知っている葉ちゃんは・・・・神様みたいないい子でした」(p.127)と言わせることで太宰は明らかに葉蔵という存在を肯定している。
この部分が人間失格の、まことにといっていいか、困ったところ。
単純にいえば、太宰が自分を自己弁護し、自己無垢化(無罪化)しているところ。
では、その罪とはなにかというと、人間失格というきたない小説(これはかなりきたない小説)がこの自己無垢化(無罪化)をどのようにしかけているかに関わるのだが。
ぶっちゃけ、これはテメーの女が寝取られたのに、僕ちんは無垢なの、彼女は罪じゃないと思う僕ちんは無垢なのということである。あ・ほ・か、と。noon75さんとかyukiさんのエントリでも嫁てば。
もうちょっと言うと、太宰は、女の性欲というものにうまく対応できないというのが人生の秘密だった。
これは単純には母子関係だが、その後、彼は、性的な関係から愛情を引き出すために女をダシにするという、なんというか、こういう言い方はきついのだが、女を自己感情のための道具にしてしまった。昨今の言葉でいう肉便器よりひどい。
もうちょっというと、太宰というのはかっこよくあたまがよく人が惚れるタイプの人間であり、人が惚れるタイプの人間というのは馬鹿でないと悪の巣窟のようになってしまう人生の不運の一類型にすぎない。
太宰は基本的なところで自己を支える母性的な愛情が欠落しつつ、それでいて人からの愛情がたやすくゲットできる。それでいて、自己が支えられていないために、性欲の自己化というか、自身が性的に異性と関わるという自立性ができてない人だった。主体として性に関わることができなかった。
というか、あと10年生きたら、だいぶ変わっただろうにと思う。