50年生きてみると

  • 生きているもんだという驚愕感がある。
  • 私は20歳まで生きられないなと思っていた。ティーンエージで自殺してもなんら不思議でもなかった。ただ、50歳まで生きて見ると、そうでもない、いわく言い難いものが自分を守っていたとしか思えないものがあると思うようになった。スピリチュアルになってしまうのもどうかと思うけど、今どれほど生きづらい人でも今気がつかない大きな力のようなものをいつか感じる可能性はあると思う。
  • 邱永漢も言っていたが、青春で無謀な人生を選んでも、身体は50歳までは生きられるがそのあたりで死ぬ。むちゃくちゃやっても50歳まで生きられるという人生もあるのだろう。下天とはそういうものなのでしょうね。信長も謙信も50歳で終わりと思って生きていたいようだし。
  • 無謀な人生というのは、意外とテンプレで、飲む・打つ・買う、つまり酒、賭け事、女。それと加えるなら自意識過剰。
  • 自意識過大というか自分の才能に賭けられる人は本当にそれが才能なら、50歳くらいで自滅するか、あるいは自分というのを実は失う。「はてしない物語」(参照)にその秘密が書いてある。
  • 酒というのはどうしようもない。どうしていいかわからない。しいていうと、旨い酒と旨い飲み方を覚えなさいとしかいえない。まずい酒だとわかって飲んで苦しんで死ぬ人は少なくない。
  • 賭け事も酒と同じ。免れた人生はそれだけでラッキー。
  • 女。女性にとっては男と言えるかどうかはわからない。男女というのは30代に入って、生物的なら子どもをなしてみたいな時期になってから、魔の時期がある。まあ、これは簡単に言えるものではない。非モテとかいう人は実はけっこう守られているというか進化論的な有利があるのだなと個人的には思う。
  • 50歳まで生きられなかった人に、奇妙な罪責感と優越感ではないが、偶然に私は生きているな、恵まれているなとは思うようになるし、うまく言えないのだが、優越感とは逆に、彼らのほうが人生の完結度を示していて、呆然とするものがある。中島敦全集を読むとよいよ。
  • 20年くらいの時間は大した時間ではないなと思うようになる。これは愕然とそう思う。志のある人は40歳までは迷っていてもいいのだろうと思う。
  • 正直者がバカを見ないかもしれないなと思えるのは、50歳くらいからではないか。ひと昔前みたいに子どもが40代で成人しているとやや前倒しというか。ようするに正直者というのは人の生き方であって、人が人に連なる生き方の問題。つまり、バカを見ない人は自分自身だけがバカをみないと思っているだけのことであって、人なんてものは、人の交わり、連なりのなかに消えていくものなので、その消え方の最適戦略として、弱者でもそれなりに取れるのが正直者ということ。
  • 正直者というのは、続けていくと、自分への確信が年率0.01%くらいつく。もうちょっというとたとえば、いかなるときでも私はその点では卑怯なことはしないよというのがあれば、その点から卑怯な攻撃を受けたときに自分を越えた強さが現れる。これは自分としては聖書というかパウロから学んだ。自分が弱いとき聖霊が代わりにそこに立つのだから安心しなさいと。また弱さであってあなたへの恵みはもう十分なのですよ、と。
  • たいていの人の人生は失敗ばかりの人生になると思う。残念ながら40歳越えると失敗は見え始め、50歳では失敗が完成する(例外もあるかもだけどね)。しかし、その失敗を心理的に合理化するのとは違って、50年も生きてみると、その失敗によって刻まれた人生の不思議さを思うようになる。へぇ、私ってこういう人生を歩んだのか、みたいな。へぇ、こういうストーリーでしたか、ほぉ、みたいな。

 なんか説教みたくなったし、だらだら書きそうなのでおしまい。