生きにくさ

 いつだったか。案外20年くらい前だろうかTVだったが糸井重里が、二十歳までに悩んだことは二十歳過ぎたら忘れましたみたいに言っていた。今ふと思うと、そのころ彼は、クリスチャンのよくできた嫁さんを捨てて樋口と出来ていたころではなかったか。むむむ。
 ご多分に漏れず私も生きにくいに悩んだ部類で、今思うと、物心付くまでが最悪で、小学生がかなりひどくて……という感じで、いつまでひどかったんだか。
 と書きながら、というか書いてみたく思ったのは、生きにくさというのは忘れたな。いつごろからだろうか。やべー俺の人生はマジ終わりぃみたいなことになってからか。考えてみると、生きにくさというのは、ある程度、未来の期待というのがある。未来がないとわかるとそれほど生きにくいというのは薄れて、その日その日があるばかり。真引きさんとかも、傍から見ていたら死ぬまでその日その日があるばかりなのに随分元気に悲劇げなのはまだ若いからか。
 群衆のなかにいると人ゴミとはよく言ったもので、人はゴミみたいだ、と、そりゃ誤字だな。ま、でも人はゴミみたいなものだが、自分にとって自分は大切だし、親族的には大切の度合いというか磁場みたいなものがある。そして友情とか恋愛とか。ま、ざっくり言えば、そうしたものに繋ぎ止められている反照でみなさん生きているようなもので、それは大切でしょう。
 で、俺は何を言いたいのか。
 特にないのだが、生きづらさというのが、どっからか、なんと私の人生って無意味なんだろというのとバランスしてしまった。まあ、人生の意味なんてものは先の繋ぎ止めと同じようなもので考えるだけ無駄だが、なんというのか、昔の生きづらさというのが今でもそのままにありながら、自分のくだらなさ無価値さにほっと息をつくというか、ま、夕食は吉野屋の豚丼でもいいかぁみたいな。お腹が一杯になって暗くなって寝る布団があればいいじゃんというか。まじ布団もない日のことを思うと布団に寝れるだけ楽。
 ま、実際のところ、生きづらさというのはそういう頭で考えたりということではなく、けっこう無痛の苦痛みたいな身体現象ではないかとも思う。痛みとか苦しみというのは、身体とのコミュニケーションがうまくいってない信号ということは多い。
 いつも同じことを言ってるだけだが、私というのは私の身体ということだし、私の身体というのは私の意識となんかズレてしまっているので、そいつとうまく折り合いを付けないといけない。なんつうか自分の身体という金魚鉢に餌やったり水替えたりとか。
 そういう自己メンテナンスのメンドチさというのは生きづらさとは違うわけで、まあ、生きづらいときは自己メンテナンスでもしてるほうがいいのだろう。