打たれ弱さ…

 R30さんとこのコメントでfinalvent打たれ弱いというのがあった。
 そう見えるのかという、見える像には関心を持った。
 個人的には、あまり、打たれ強い/弱いに関心はない。
 自分では、心に嘘をつかない、と考える。心というより、無意識というべきかもしれない。また、いわゆる「嘘」という意味でもない。
 私は強く生きようと思ったことはない。現実は、自分は弱い人間ではないかと思う。ただ、自分をなんらかの意味で弱者に分類しようとも思わない。
 それが弱者であれ、なんであれ、なにかに依存して発言することに恐れを感じる。
 このあたり、誤解されることも多いのだろうが、「日本人として発言」というとき、「日本人はかくあるべきだからこう発言せい」ということはあまりない。ゼロとは言わないが。むしろ、日本人としてしかありようのないところから発言するという感じである。この差異は、それ以上うまく表現できないし、うまく自分で明確になっているというものでもないかもしれない。
 これも誤解されるかもしれないのだが。
 人がもっとも弱いところで、キリストは現れる、と思う。信仰というつもりはないし、キリストと言った時点でキリスト教の文脈に置かれてしまうのだろう。そのあたりはとても言いづらいことでもある。
 うまく言えないのだが、私は、そういう意味では、キリストを信じる。これは、自分のもっとも弱いところを守る必要がないのだという確信でもある。
 現実の人生で、もっとも弱い部分を守らずに生きられるかというと、そうでもない。ただ、究極的にはそういうありかたでキリストが現れるという確信はまた存在する。
 犬よりも惨めにキリストは殺された。もちろん、それは史実ではないのではないかとは思う。キリストは神からも見放された。このことはあまりクリスチャンは語らないように思うが、キリストは神に見放されて死んだ。キリストは人となった神とも言うが、それはまったき人でもあるということだ。まったき人の究極のありようとは、神に見放されて死ぬことだ。それを、キリストははっきりと示した。それ以外はすべて虚飾であり、幻想である。
 と、ここで、生き続ける経験のなかで、二つことが起きる。キリストを殺したこの世とは「私」であるということであり、私とは罪としてしか存在しえない。もう一つは、そのように死なれたキリストがわが主であるということだ。このあたりの表現は微妙にキリスト教信者の領域に入ってしまっているかもしれない。
 そこはうまく言えない。
 そこが信仰だからということではない。救いはなにもないのだ。