acimレッスンの終わりに向けて

 昨年の3月11日に開始したAcimのレッスンだが、やってみるととてもむずかしい。これは終わることなく、途中で放棄するんじゃないかとなんどか思った。あるいは、別に1年でやり遂げる必要もないと思いつつ、なんというか、この日記にしがみついて、へとへとになって辿り着いた感じがある。まだ、ではあるけど。
 先日、私のキリスト教理解は間違いであり、私は「アフォ」だと言われた。愛を込めて言われたのかもしれないが、それはそのまま受け止めることはできた。つまり、私は阿呆であり、私のキリスト教理解は間違っていると。それはそれでかまわない。
 もちろん、理性的に言えば、それは私の発言を単純に誤解しているにすぎないのだが(私はカルバニズムのみをキリスト教だとしていないことは過去発言から明白なので)、それでも、私の考えが、キリスト教なるものから逸脱しているのは、それはそれで確かな感覚なのだろう。
 私は、たぶん、キリスト教より、Acimのイエスに向かった。
 私はクリスチャンではない。私は、キリスト教という意味で、神を信じることはないだろうと思う。私は、「異端者」になったのだな、と自分を悲しく思う。
 ただ、イエスと、その教えを、Acimによって、より身近に感じるようにはなった。
 なんというのか、Acimを通して決定的に学んだことの一つは、罰することは間違いだということだ。裁くことは間違いだと言ってもよいかもしれない。
 罰することに潜む間違いということもうっすらと気がついた。人は「罪」を誇ることができてしまう。それこそが間違いなのだ。神をもって罰する、裁くことが間違いなのだと。
 Acimのイエスはヘレンとの対応のなかで、ヘレンが間違っていくとき、それを罰せず、根気強く、訂正するとした。あなたが間違うなら、私は訂正しよう、と。