メリークリスマス!(ダーク編)

 昨日なんとなく聞いた飯島愛の死に驚いた。実際に死亡していたのは3、4日前とのことで、イブに併せてということではないのだろう。事故死かなとも思う。そうであっても、彼女が一人こっそり死んでも、数日は誰も気が付くこともなかったということではあったのだろう。
 人は寂しいものだと思う。そして寂しさとは恐怖にもなる。私は孤独感が強く、今でもどうしても払拭できない孤独感はあるが、実人生ではそう寂しいものでもない。人生を薄目で見るなら、神様とかがいて恵みの多い人生だったようにも思う。が、たとえば、飯島愛さんが、では神様とかの恵みの少ない人生だったかというと、それはそうではない。
 人がどう生きるかは、運命でどうにもならない部分がある。というか、けっこうある。偶然もある。ただ、自分の実存をどう了解するかについては、人は主体足りえる……といっていいだろう。まあ、そこもサルトルのようにはいかないか。
 小林秀雄から学んだことは悲劇というのはあるというあたりまえのことだった。生きなくてならないから悲劇はあるというあたりまえのことだ。ただ、それでも、どこかに慢心というか、自己が自分の運命を支配できそうな思いや誘惑は混入するし、そのことがより人を孤独にしてしまう。そしてその孤独は、なんというか罪の帰結というか死の棘というか。
 そういえばネットから梯子丹が消えた。理詰めで考えると録でもないことになっているのではないか思わないでもないが、感覚的にはただネットから離れてそれなりに生きているのではないかと思う部分もある。どっちかというとわからない。彼女は、私より存在の強い人ではないかと思う。私より存在の強い人のことは私にはわからない。
 私は、人を見たとき、知ったとき、私より存在が強いなということを思うことがある。強いというのは生存力とか影響力というのではなく、うまくいえないが、ああ、この人は私より存在が強い、と感じる。うまく言えないのだが、「強い存在」「弱い存在」ということではないし、まして、自意識の関連ではない。それをいうなら、存在の強い人は自意識の自省性は少ないように思う。自意識がないわけではないが、ああ、この人には弱い人間の惨めさというのは一生わからないのだろうな、みたいな感覚だ。(同様に私より存在が弱いということも、別にそれほどの意味はない。しいていうと自分はその人とどう関わるかなという問題になる。)
 存在は与えられてしまうものなので、どうすることもできない、と言いつつ、私は、存在を強く与えられた人は、弱くして生きたほうがいいと思う。そのあたりもうまく伝えることができないが。
 人は悲劇を生きるより、幸せを生きるほうがよいと思う。それができないから悲劇だというのもわからないでもないが、悲劇は存在の強度に関わっている。
 私は、だから、だからというのか、存在を弱くして生きないさい、とは言えない。ただ、私に向いあうある絶対者の感覚はそこを、弱い形では告げている。
 ここもうまく言えないのだが、弱いものは美しい。いや、美しさは強さや弱さとは関連はない。そうではなく、弱い美しさに出会うとき、自分が打ち砕かれたことの恩恵を思う。ただ、それも弱いものに美しさを見るとか、自分を絶えず否定していく、ということではない。それはただ、そういう出会いというか、向こうから到来する何かであって、そのために自分が、なんというか祈りのポジションにあるかということに思う。たぶん、祈りは異邦人のように祈ることではなく、祈らされることなのだろう。幸あれ、神に砕かれることに恩恵あれ。
 書きながら、洒落ではなく、曖昧になっている。消してしまうかと思うがなんとなく残しておく。ネットで伝わるとか伝わらないとかはあまり、こういうことについては考えない。伝えたいという私の主体は、そう強くはない。