朝らしい朝だなと思う
なんかポエムでも書きそうな気分を抑えて。
ぶくま界隈を見ていたら、こんなのが。
こんなの⇒うどんこ天気 - セックスしていても一つにはなれないけれど
ええと、私はこーゆー話、好きですね。いい話じゃん、いいカップルじゃんとか、思いますね。この先、こーゆーと嫌われるけど、大衆ってそういうものだし。ただ、たぶん、セック○というのは、そううまくはいかんかもとも思うけど。
ほいで、そのぶくま⇒はてなブックマーク - うどんこ天気 - セックスしていても一つにはなれないけれど
いや、なんつうか、はてならしいぶくまでいい味だしていて、もうもう。
なんでぶくまコメントが話題になるのか、少しわかったような感じがしたが。
次。
標題どおり⇒童貞の俺がお見合いパーティに行ってきた
お兄さん、お歳はいくつくらいだろう。それによって、ちょいと思うことはあるけど。
で、ぶくま⇒はてなブックマーク - 童貞の俺がお見合いパーティに行ってきた - はてな匿名ダイアリー
それほど索漠としているわけでもない。
増田的展開例としては⇒anond:20070428213119
ダメだしを2点ほど。
| `*。 マハリクマハリタ ,。∩∧_,,∧ * もうどうにでもな〜れ〜 + (´・ω・`) *。+゚ `*。 ヽ、 つ *゚* `・+。*・' ゚⊃ +゚ ☆ ∪~ 。*゚ `・+。*・ ゚
毎日社説 日銀展望リポート 金利機能の正常化は必要だ
なんか痛快。痛快って、痛くて快感ってことか。
物価統計がマイナスだからデフレ状態にあるというのが、日銀の利上げに対する批判の論拠だ。ただし、マイナスといってもゼロ近辺で、統計上の誤差の範囲とも考えられる。また、物価下落の要因となっている原油価格や携帯電話料金など値下がり自体は悪いことではない。
ちなみに、実質では1%だったか下駄載せないと無意味っぽい。
ま、この分野、テクニカルな話は私向きじゃないけどね。
若手の文章はココがダメ!
- 何を伝えようとしているのかオレ様にハッキリと分からない
- 「私はこう思う」というお前の思いだけを書いた言い切りの文章が多い。その理由がオレ様に分からないため、説得力がない
- オレ様に意味が曖昧な言葉を気軽に使いすぎ
本屋で「イイ男」がなんちゃらという新書を見かけた
めくってみた。ま、ふーん、と。
どっかの統計で、男が関係を持つ女性が十人というのがあって、ほぇと思った。が、まあ、オレに関係ない。
イイ男というのは、女が決めるもので、大筋ではこう。
- 連れてて他の女に見栄えがイイ男
- 女であるワタシ様に都合がイイ男
このご都合がマインドマップ的に詳細に展開されるわけだけど、たいていの男は前段でフィルターされるし、そこで残った男が普通の女に都合イイわけないので、こんな問題、すこし考えたら、普通の人には関係ない。
まあ、しかし、みなさん、ワタシもそうだけど、自己幻想というのがあって、なかなかね、現実に向き合えるものでもない。
はてなQより ケセラセラ
⇒ケセラセラ になるようにアドバイスをもらいました。どうしたらなれますか。 - 人力検索はてな
いつも思い出すのさ
自由のために死を選んだ
グェン・バンチョイ ジョー・ヒル
ビクトル・ハラを
決して忘れはしないさ
ケ・サラ ケ・サラ ケ・サラ
僕たちの人生は
平和と自由もとめて
生きてゆけばいいのさ
原爆の日や終戦記念日前後に開催される東京〜広島間平和行進において歌われる曲。某政治団体が反戦歌として多用することを除けば、よい曲だと思われる。「タンポポ」「折り鶴」「ヒロシマの有る国で」も同様。
使用する団体により歌詞の一部が異なっている。
オリジナル⇒Jimmy Fontana - Che Sara Lyrics
YouTube⇒YouTube - JOSE FELICIANO - "QUE SERA" ( Spanish Version )
アモレミオくちづけした
初めての激しい恋 だけどいつかは
冷たくなるさ誰も分りはしないさ
ケ・サラ ケ・サラ ケ・サラ
僕たちの人生は
平和と自由もとめて
生きてゆけばいいのさ
添削はしないけどちょこっと
それまで、意味の担い手は「人間」であり、ソシュールと同時代の人ですがたとえばフッサールは『イデーン』において人間の意識を意味の根拠として見出したのでした。しかしソシュールの発想ではもはや意味は人間によって担保されるのではなく、言語という差異の体系が生み出す効果でしかないということになります。ここに、ソシュールによって歩み出された根本的な脱人間化の契機があった、とさしあたり述べることができるでしょう。
まあ、あまりテクニカルな話をしてもなんだが、議論の基礎になっている、この↑あたりが、ちょっと、違う、と・思・う。
フッサールについては、「イーデン」がそう読まれるのはしかたないかとも思うが、「人間の意識を意味の根拠として見出した」をフッサール思想としていいかは若干だが疑問。むしろ、後期の生活世界につながるかと思う。また、それは「根拠」性の議論かどうかも。
で。
「意味は人間によって担保されるのではなく、言語という差異の体系が生み出す効果でしかない」だが、これは複雑に間違っていて、説明がむずかしい。
まず、意味(signified)と意味作用(signification)が混乱している。
そして、たぶん、価値(value)と意味(mening)が混乱している。
それ以前に、差異の体系は、音素という記号の体系であって、意味の分節の体系ではない。もっとも、音素列として表出される単語が意味の分節を担うと言えないことはないが、そのあたりはホワーフ仮説的な問題でソーシュールはそこに踏み込んでいない。ただ、ソーシュール的な思索の跡はむしろ後期アナグラム研究に見られる。
で、ヤーコブソンの音素研究は、ソーシュールの差異の体系、つまり、弁別と相補性の記号学として示したのであって、特に、思想性はない。このあたりは、ピアジェが整理のような混乱のようなものを提示している。構造主義というのは一義には記号学方法論に過ぎない。これをレヴェ・ストロースが親族構造に援用してみせたのだが、この研究がどれだけ実証的か疑問の上、その解釈をもって構造主義というのが出てきたのだが、この時点で、すでにソーシュールとは方法論上のつながりしかない。
ソーシュールは意味作用や社会における人間の言語活動をパロール(parole)として捉え、ラング(langue)から捨象している。ちなみに、デリダのパロール(parole)はエクリチュール(ecriture)の対応であって、基本的にデリダはソーシュールがまるでわかっていない。
また、ソーシュールは言語活動をランガージュ(language)としていて、これはラングとパロールを取り敢えず含む、いわゆる、ことば、というものをとらえている。
ただ、このあたりは少し私の理解も曖昧。
なので、少し曖昧になるが、総じて言えば、意味として語られる意味作用は基本的にはソーシュール的にはパロールを元にしたランガージュの機能としている。ただ、その中にラングも含められているのだが、それはむしろ、マインドの関連だろう。このあたりはチョムスキーの直感が正しい。
いずれにせよ、ラングが意味作用を生み出すわけではない。
結局のところ、ソーシュールの思想にはラングを動かす主体が、ルールなのか、マインドなのかが曖昧になっている。ルールだとすると基本的にはヴィトゲンシュタインの思想に近いし、マインドとするとチョムスキーのそれに近い。
ルールであれば起源は本質的に回避されるがしいていえば、種の特性になるだろう。マインドであるとすれば、それこそが非個人性の構造と呼べるもに近くなるが、いずれにせよ、それが意味作用を持つわけではない。
とま。
ちょっと言葉がきついので、「そんなこともわかっとらんのかぁヴォケ」みたいに聞こえたらすみません。そういう意図はないです。
単純に言えば、ソーシュールというのは一種の魔窟みたいな思想家だし、フランスの構造主義というのは、単純に、実存VS構造、というスキームで、一種の時代思想と見た方がいい。そこで援用される記号手法の源泉の一つにソーシュールがあり、ヒルベルトがあるということで、この2巨人に突っ込むと、フランス構造主義というものが、かえってボケてしまう。
ちなみに、実存VS構造、というとき、基本的な問題は、サルトルVSフーコー、あるいは、サルトルVSコジェーヴ、なんで、そのあたりの、経緯や、実際的なフランス社会の社会運動とソビエトとの関連があり、いわゆる思想側で浮き出たエクリチュールを追っているとよくわかんなくなる。
具体的にはこのあたり⇒五月革命 (フランス) - Wikipedia
それと⇒プラハの春 - Wikipedia
さらにその根⇒ハンガリー動乱 - Wikipedia
(すごいべたに言うと、実存VS構造というときの、構造とはソ連ですし、実存とは思想者です。)
で、その思想的な補足なんだが、サルトルVSフーコー、あるいは、サルトルVSコジェーヴ、の背景にあるのは、マルクスとハイデガーなんですよ。
その意味で、マルクスVSハイデガーというのを様々に変奏したのがフランス現代思想で、でも、それは前世紀あたりですでに終わっていると思う。
こうした哲学は、フランス社会の問題が必然的にタスクとしたものなので、その現実のコンテクストからどう考えるかということなんだが、どうしても日本の知識人とかはデリダとかサイード(米だが)とかそういう、しいていうとアンチテーゼ的なエクリチュールから入ってしまう。
このズレは、コソヴォ紛争の時にけっこうやったんだけど、なんかあれが雲散霧消したあたりで、日本でもいわゆる思想的な左翼も消えてしまった。
でと。
だらだらするが。
ずっこけでいうと、ネオコンというのは、そういう思想の一つの区切りとしてラディカルな理想主義として出てきた。ただ、これはむしろ英米圏というかローマ帝国的大英帝国的な歴史主義のカリカチャでもあったのだけど、この壮大な思想運動も結局失敗してしまった。その意味で、ポスト・イラク戦争というのはラディカルな理想主義の終わりでもあり、別の言い方をすると同根のモデレートな理想主義であるオレンジ革命も失敗。また、アフガンが失敗したことも思想的な意味がある。そのあたりで、こういうゴリっとした理想主義が終わってしまったわけで、日本の左翼とか米国バーカバーカと言っているけど、フランスの知識人は屈辱と再構築に苦悶しつつ、英語を習得するというか英米圏の思想を吸収しつつある。
ただ、私が見えないだけかもしれないけど、こうした筋で見ていくなら米国側からこれらを越えていく思想が出てこなければいけないのだけど、見えないという感じがする。案外アカデミズムやネオコンが未だに思想レベルで使えるということなのか。
さらにずっこけだけど、ロワイヤルは場合によってはダルフール危機に関連して北京オリンピックをボイコットすると言い出している。これはけっこう英米圏でもフランス知識人でもけっこうマジになっている。このあたり、日本で受け止める知識人がいなくなったなぁ、砂漠だなあという感じがする。
追記
応答を戴きました⇒生きてみた感想 - 困った
僕の印象だと、むしろなにかコメントをするという動機が先にあって、そのあとでかつてかじったことのある知識をちょこちょこ張り付けてみた文章、という風にしか読めませんでした。
了解しました(というかそう見られて別に不本意ではないです、というか略)。
余計なことを書きすぎたのかもしれません。基本的には、
1 意味(signified)と意味作用(signification)が混乱している。
2 価値(value)と意味(mening)が混乱している。
3 差異の体系は、音素など記号の体系であって、意味の分節の体系ではない。
ということでした。
あと失礼にならないように。ごくテクニカルな指摘としたいのですが。
それと⇒生きてみた感想 - ラカン、ソシュール、デリダ
こうして言語的な意味というものが、シニフィアンの恣意的な戯れの効果として生み出されるシニフィエとして捉え直されるわけです。シニフィアンのあいだのもろもろの差異が、それを通して指し示される現実をさまざまに分節していく、というモデルです。
それはソーシュールの思想にはなく、ホワーフ仮説に近いものであり、まったく恣意的な言説というか、科学としての言語学なりの範疇を越えます。
⇒サピア=ウォーフの仮説 - Wikipedia
少しくどいのですが、「シニフィアンの恣意的な戯れの効果として生み出されるシニフィエ」という主張はソーシュールにはなく、かつそれが科学的方法論としての構造主義を逸脱しています。
もひとつ。
ソーシュールにおける共時性はラングの問題であり、時間つまり通時性は歴史言語学、つまり比較言語学を指します。特に後者の通時性はむしろソーシュールが生きていた時代に認められたヒッタイト語のhの分析に関連します。
ほぉ、その評はお見事
構造主義の入門ということなら、まずピアジェのこれくらいは……とか思ったら、アマゾンの素人評がお見事。
⇒「 構造主義: 本: ジャン・ピアジェ,滝沢 武久,佐々木 明」
本物の構造主義者による、科学的な構造主義入門, 2005/6/13
レビュアー: 蒼龍 - レビューをすべて見る
認知心理学の源ともなったスイスの心理学者ピアジェによる構造主義の分かりやすい解説書。
日本で巷にある構造主義の解説書のほとんどはソシュール経由のフランス構造主義ばかり。構造主義の解説書というと、橋爪大三郎の「はじめての構造主義」という名著がある。あれはレヴィ・ストロースからの入門だが、数学的構造主義にも言及している親切な本。しかし、数学的構造主義を本格的に用いた理論といえば、ピアジェの発生的認識論がある。その構造主義者の一人であるピアジェが書いたのがこの本なのです。
どうも日本では構造主義というと、フランス現代思想ばかりが紹介されがちだが、心理学を専攻していた身からすると、ピアジェやチョムスキーがなぜ無視されるのか、不満でたまらなかった。そういうわけで、この著作はその空白を埋めてくれる見事な入門書になっているのです。とくに、最後のフーコー批判はものすごいものがある。「言葉と物」は理由もなく変化する恣意的な構造に過ぎないという批判はさすが。構造主義とは、実は科学的方法論だったのだと気づかせてくれる稀有の傑作。
ただし誤解してはならないのは、フランス構造主義が全くダメという事ではないということ。実際、ピアジェはアルチュセールの事は褒めている。本当に必要なのは、その方法や理論が現実を理解するうえでいかに役立つかを、きっちりと捉えなくてはならないことなのです。安易に特定の理論を受け入れたり捨て去ったりすることがどんなに不毛なことか。そういう本来の意味での科学的な態度を教えてくれるのもこの本なのです。
まさしく、「構造主義とは、実は科学的方法論だったのだ」ですよ。
ただ、思想の文脈ではそうでなくなった。
なぜそういう変化があったかというと、冷戦下の欧州の問題だった、と。
ソーシュールが近代言語学の父である理由
単純にいうと、文法学に科学的根拠を与えたこと。(と同時に言語学を歴史学から独立させた。)
科学的根拠とは文法解析に記号論という方法論を確立したこと。
その方法論というのは、基本的には、2つ
1 paradigmatic relation
2 syntagmatic relation
paradigmatic relation から品詞に相当するカテゴリーを導くことができる。それ以前は、ギリシア・ラテン語文法の8品詞説など超越的な意味論的な品詞説が存在した(これは基本的にラテン語に転写するためだろうけど)。
syntagmatic relation から文法を導くことができる。
で。
こうした分析を可能とする対象となる言語というものをラングとして措定することで、言語活動の煩瑣な諸相を捨象し、かつ時間変化を原理的に静止させることにした。つまり、言葉がどのように社会に使用されるか、時代変化を遂げるかということを、言語学の外側に放り出すことで、言語学の原理性を明確にした。
で。
と。
この方法論があまりに鮮やかであったことと、その記号論は言語学以外にも適用できるかもしれないということから、記号論および構造主義に流れ込んだ。
paradigmatic relation からは構造上の可換性としての位置、
syntagmatic relation からは構造上の構成関係(数学的な関係)、
が導ける。
で、valueというのは、この位置と言い直してもよいものであって、日本語でいう価値があるものお値打ちのような意味ではない。プログラミング言語でのeval()とかのevaluationなんかもこれと同じ。
このvalueが「意味」を駆逐する。
当然ながら、この原則としては、意味というものをすべて排除することになる。つまり、解釈の恣意性を完全に除去できるころに、最も重要なこと点があり、そして、解釈がゼロになるということは、記号の関係性をすべて数学的に記述可能にするということで、いくつかの人文学・社会学の領域を科学に移すことが可能になった。
また。
この時点で、構造が数学的に記述できるということから、↓のピアジェのような考えに結びついていく。
補足
記号学はsignifiedのような恣意性を持つと想定できるが、それがどのような構造を持つかは、signifiantからはわからない。
つまり、意味のネットワークは記号のネットワークとは等価にはならない。では、どのように意味のネットワークを記号的に扱うことができるか、という難問からソーシュールはアナグラムなど問題に関心を移したのではないか?
ちなみに、意味の世界が構造であるとすれば、記号と同様に、個々の意味は存在せず、唯一の意味からそのネットワーク構造の位置として表現されるわけで、そこから唯一の意味という概念が出てくる。ラカンの発想はこのあたりに依存しているはず。
もひとつ補足
すでに指摘されているかわからないのだけど。
ソーシュール以前の言語学というか言語への関心というのは、基幹に、言語はいかに発生したか?という問い掛けがあった(当時の主流は比較言語学だったが)。つまり、言語起源論である。現代ではルソーのくらいしかあまり回顧されないが。
で、この言語起源論というのは、ホッブズなんかと同じで自然状態を想定する。というあたりで、またもルソーだけど彼も契約論の方法論はこの自然状態。
この自然状態というのは、現代日本語の自然とは違って、なんというか、仮想的な自然性なんだが。
で、ソーシュールが近代言語学を打ち立てることで、自然状態を方法論におく言語起源論というものを実質的に駆逐した。
これがけっこうすごいことなんですよ。
他の学ではそれがなかなかできない。
で。
ちょっと脇道に逸れるのだが、社会思想や社会哲学のほうでは、依然自然状態論が生き延びて、困ったことにマルクスもこの自然哲学に依存している。
そういう意味で、ソーシュール学から援用される記号学から構造主義が社会学的な領域に影響するのは、単に遅すぎただけ、という考えも成り立つと思う。
この自然状態が、起源論と結びつき、原初というものを生み出すのも、近代の特徴。マルクス主義の原始共産制とか。その他、近代国家の起源とか、原始仏教とか、この手のはすべて近代の擬古だし、自然状態=起源論の亜流。
っていうか、起源論的自然状態を想定する方法論ってみんなゴミ。
そういう意味で、ソーシュール学系の構造主義、特に、その共時性と構造の概念というのは、ごくごくべたに諸学の基礎になってしかるべきで、やはり遅すぎかも。
参考⇒自然状態 - Wikipedia
とても簡単な構造主義入門
構造主義とは何か? いかめしい定義はさておき。
東京駅5時発の中央線の電車を考えてみよう。
この電車は平日ダイヤなら毎日、5時に東京駅から出発する。
ではここで問いかけ。
今日の5時発の中央線の電車と、昨日の5時発の中央線の電車は、同じだったか、違ったか?
答え、わからない。
でも、そんなこと気にしなくてもいいじゃん、「同じ電車」なんだから、といって、強引に「同じ」にするのが構造主義。
同じ時刻に同じ駅から出発する電車は、つまり、同じ。それで何か不都合でも?みたいな考え方。
そして。
この「同じ」であることを保証しているのが、時刻表。
時刻表という構造、正確にはダイヤという構造。
このように。
構造主義では、対象がまずある全体構造として捉えられ、その構成要素は、システム内部の差異(東京駅か秋葉原駅という差異や、5時か6時かという差異)によって同一または別物だと扱える。
しかも、その要素はすべて、aとかbとかcとか任意の記号的に記述でき、解釈(aには意味がない、bと違うだけ)を必要としない。
さて。
このように思索の対象を構造として考えるのが構造主義。
構造主義によって、実体(個別の電車の特徴)や、意味=解釈(電車とはなにかの恣意的な議論)を一切排除できる。
以上が方法論としての構造主義。実際にはもっともっと巧緻になりうる。
でだ。
いわゆる哲学的な構造主義とは何か?
これは、社会活動を人間個々人や集団という主体の活動の総和として見るのではなく、社会構造・権力構造という構造が、がーんとまず存在し、個人や集団は、先の電車のシステムのように構造に割り当てられているだけと見なす考え方。
なんでこんな考えが出てきたのか?
個人の生き方とか主体とか、そういうことを考えてもまったく社会変革は不可能。そんなことより、社会や権力の構造をいうものを捉え、その構造の解析から一種の工学的に社会を変革できないものか、という発想。
ただし。
実際の構造主義では、変革の企図性は抜けちゃって、ぼくら構造の一部じゃん、ダメじゃん、人生オワタ、になりがち。
以上で、とても簡単な構造主義入門終わり。
おまけ。
構造というのはそういうソリッド(固い)スタティック(静的)じゃないよ、もっとダイナミックなものだから、ニッチや抜け穴があるから、そこで逃げまくってもいいんじゃないかというかその手の考えかたが、ポスト構造主義。
構造主義からもポスト構造主義から抜け落ちるもの
あなた。
多分、Googleはポスト・ポスト構造主義
力(技術)が世界を変革可能だと確信しているし、実際、世界を変革している。
ポスト構造主義的な「力(ちから)」が「技術(ゲシュテル)」と結託して出現することが特徴。
ただし。
本当に変えているのか? ポスト構造主義的な力をただ自滅的に加速しているだけなんじゃないか。
で、前者がGoogle主義。後者がポスト構造主義など。
構造主義でもポスト構造主義でも、「私」が不在なのに、Google主義では、べたに私が復権してくる。
オレってこれやりたいんだもの、ちょーちょーいいかんじぃ、みたいのをべたに技術力が実現する。(しかもそれがWeb2.0だかで人の総合知や欲望を引きつけるし、カネを引きつける)。
ただなぁ……つうあたりがなんだかバーカバーカみたいなんだけどね。
でも、力がある人は、そちらにどんどんシフトしていくわけで、世界を考えているよりコードを書けになりそう。
関連⇒極東ブログ: 社会システムとルール社会を越えていくもの