ソーシュールが近代言語学の父である理由
単純にいうと、文法学に科学的根拠を与えたこと。(と同時に言語学を歴史学から独立させた。)
科学的根拠とは文法解析に記号論という方法論を確立したこと。
その方法論というのは、基本的には、2つ
1 paradigmatic relation
2 syntagmatic relation
paradigmatic relation から品詞に相当するカテゴリーを導くことができる。それ以前は、ギリシア・ラテン語文法の8品詞説など超越的な意味論的な品詞説が存在した(これは基本的にラテン語に転写するためだろうけど)。
syntagmatic relation から文法を導くことができる。
で。
こうした分析を可能とする対象となる言語というものをラングとして措定することで、言語活動の煩瑣な諸相を捨象し、かつ時間変化を原理的に静止させることにした。つまり、言葉がどのように社会に使用されるか、時代変化を遂げるかということを、言語学の外側に放り出すことで、言語学の原理性を明確にした。
で。
と。
この方法論があまりに鮮やかであったことと、その記号論は言語学以外にも適用できるかもしれないということから、記号論および構造主義に流れ込んだ。
paradigmatic relation からは構造上の可換性としての位置、
syntagmatic relation からは構造上の構成関係(数学的な関係)、
が導ける。
で、valueというのは、この位置と言い直してもよいものであって、日本語でいう価値があるものお値打ちのような意味ではない。プログラミング言語でのeval()とかのevaluationなんかもこれと同じ。
このvalueが「意味」を駆逐する。
当然ながら、この原則としては、意味というものをすべて排除することになる。つまり、解釈の恣意性を完全に除去できるころに、最も重要なこと点があり、そして、解釈がゼロになるということは、記号の関係性をすべて数学的に記述可能にするということで、いくつかの人文学・社会学の領域を科学に移すことが可能になった。
また。
この時点で、構造が数学的に記述できるということから、↓のピアジェのような考えに結びついていく。
補足
記号学はsignifiedのような恣意性を持つと想定できるが、それがどのような構造を持つかは、signifiantからはわからない。
つまり、意味のネットワークは記号のネットワークとは等価にはならない。では、どのように意味のネットワークを記号的に扱うことができるか、という難問からソーシュールはアナグラムなど問題に関心を移したのではないか?
ちなみに、意味の世界が構造であるとすれば、記号と同様に、個々の意味は存在せず、唯一の意味からそのネットワーク構造の位置として表現されるわけで、そこから唯一の意味という概念が出てくる。ラカンの発想はこのあたりに依存しているはず。
もひとつ補足
すでに指摘されているかわからないのだけど。
ソーシュール以前の言語学というか言語への関心というのは、基幹に、言語はいかに発生したか?という問い掛けがあった(当時の主流は比較言語学だったが)。つまり、言語起源論である。現代ではルソーのくらいしかあまり回顧されないが。
で、この言語起源論というのは、ホッブズなんかと同じで自然状態を想定する。というあたりで、またもルソーだけど彼も契約論の方法論はこの自然状態。
この自然状態というのは、現代日本語の自然とは違って、なんというか、仮想的な自然性なんだが。
で、ソーシュールが近代言語学を打ち立てることで、自然状態を方法論におく言語起源論というものを実質的に駆逐した。
これがけっこうすごいことなんですよ。
他の学ではそれがなかなかできない。
で。
ちょっと脇道に逸れるのだが、社会思想や社会哲学のほうでは、依然自然状態論が生き延びて、困ったことにマルクスもこの自然哲学に依存している。
そういう意味で、ソーシュール学から援用される記号学から構造主義が社会学的な領域に影響するのは、単に遅すぎただけ、という考えも成り立つと思う。
この自然状態が、起源論と結びつき、原初というものを生み出すのも、近代の特徴。マルクス主義の原始共産制とか。その他、近代国家の起源とか、原始仏教とか、この手のはすべて近代の擬古だし、自然状態=起源論の亜流。
っていうか、起源論的自然状態を想定する方法論ってみんなゴミ。
そういう意味で、ソーシュール学系の構造主義、特に、その共時性と構造の概念というのは、ごくごくべたに諸学の基礎になってしかるべきで、やはり遅すぎかも。
参考⇒自然状態 - Wikipedia