読売社説 [地方財政計画]「交付税のあり方を見直す時だ」

 財政の健全度を示す基礎的財政収支では、地方はすでに黒字化を達成済みだ。来年度、さらに改善して黒字が5・4兆円に拡大する。一方の国は、まだ4・4兆円の赤字である。
 地方財政といえば、破綻(はたん)した夕張市のように厳しい状況にある自治体も少なくない。だが、マクロ的に見れば国より、まだましなのが実態といえる。

 だそうで。お後がよろしいようで。

システム・スルー力におけるコメントの事実性

 ネタだなと思いつつ、システム・スルー力のことをぼんやり考えていた。
 コメント力ではないが、コメントの意義というか位置は重要だと思う。というか、スルーされていけないコメントが存在するために、悪意コメントとのリスクとバランスして自分のブログはコメントを開けているのだった。
 ほいで、ポイントは。

  1. コメントの重要性は事実性
  2. コメントはたれ込みに機能されてよい

 事実性については、typoの指摘が一番べたものだろう。
 たれ込みをどう見るかが難しい。2ちゃんねるとかがなんだかんだ言われても現在社会にあってあそこしかたれこみないといえばそうかもという感じはする。
 ところで。
 システム・スルー力については、いわゆるPVのあるブログの問題のようだが、たぶん、そうなるパスが存在しているだろうし、実際にはブログが個人の金銭的な利害目的でない限り、一定の限界が存在しているだろう。逆にいうと、一定以上のPVは実際には読まれていないというか別のメディア化している。
 ブログ・クラスターズについても実際には、一定PVへのパスと見なせないこともないが、おそらく底にはある種のシーリングが存在するのだろう、というのは、ブログ・クラスターズは本質的に公的な性質を持ってない。これは掲示板とかもかな。
 
追記 貴印コメント効果の二面性
 貴印コメントとかもらうと、スルー力以前に、それ以外にどうしたらいいこの貴印、とか思うというかそのあたりから眠くなってスルー。
 だが、こういうのが増えてくると、ブログは荒れてくるように見える。そして荒れてくると、ゴミ箱覗くのいやーんということで閲覧者は減る。
 ということは、そういうことで減る閲覧者がブログにとってメリットかデメリットか。
 貴印コメントについては、論外というかルール違反ではなく、あんた貴印?というわけでかく言う自分が貴印人間でない保証はないわけで、このあたりは、正気のルールというのが常識だし、常識が危ういところで言説が成り立つというのもあるから、難しい。

システム・スルー力がデフォにならないというか

 少し考えれば、というか、ある種のモデル的に思考すると、グーグルとかも当たり前だし、システム・スルー力というのも当たり前なのだが、そう行かない自然性が重要なのだろう。
 基本的に、スルー力が必要なのは、スルーできない心性があるからだ。
 そして、その心性自体は合理性を持っていない。
 ブロガーはなんといっても誰かに伝わってほしいし、理解してもらいたい、というのはあるし、本質をずばっとコメントで返してもらいたいという期待もある(キミからだけの愛の告白っぽく)。
 このあたりの問題は、ブログの公的な性格とのバランスになるだろう。
 というか、公的な性格の枠組みがないなら、あるいは公的であっても専門的な枠組みの場合は、ミクシーとかクローズのほうがいいだろう。
 ふと思ったのだが、勝Pのように対価を取るというのは、システム・スルー力の一つのシステムではあるだろうだろ。
 ブログの分類、モデル化がちょっとはやりみたいではあるが、実際にはある種のもめ事というか interference としてモデル化されるものであり、問題性というは、実は、ブログの適正化のドライブなのだろう。
 ぶっちゃけでいうと、罵倒されたり陰口されたりというのは、全体としてはなんらかの(タイプ分けされるだろうが)効率性を持った合理的な行動なのだろう。
 だから、システム・スルー力というのは、いわゆる足切り的な情報システムではない。
 では、ということろがけっこう面白い課題だな。

ブログはいわゆるブームとしては失敗したが

 どうも、そういう問題ではないな。
 システム・スルー力というのも、まあ、ネタと言えばネタなのだが、全体像を実感や観察から見ていると、なんらかの法則性というか、新しい何かがありそうだ。
 私のような古いネットワーカーからすると、ブログといっても便宜性だけが変わっただけで、またグーグルとかも記憶というかパーソナルな検索性が強化されただけのように思うが、密かに、なんらかの本質が変わっている。
 全体としては、Web2.0 というのはよくわからないが、Web進化というかWebにおける人間変化、というか、人間の interference モデルがありそうだ。
 そして、これは、どうもいわゆる資本主義メディアというかマスメディア、あるいはジャーナリズムとも違う。
 ちょっと極言すると、いわゆるジャーナリズムというのは、私小説だ。まさに個人が問われる。日本だとちょっとずれるところがあるが、本質規定としてはそうだろう。
 米国の場合はブロガーがそうしたジャーナリズムの延長にあるのかといえば、それは一面ではそうだろうが、ラザーゲートやレバノン空爆偽装写真など、集合知が、多くの目があれば正されるWikipedia的な動きはある。
 まあ、何かある。
 何か、よくわからない。
 ちとずれるが。
 ブックマークがいわゆるブックマークではなく共有で働き、そして実際には共有される連帯に維持されるときに、これらの一つの動向のツールなのだろう。

スルー力のもう一つの構成要素

 システム・スルー力は、まあ、言うまでもなく、システム・キッチンとかの和製英語の洒落だが、できるだけ工学的に定量的に考えたいというのがあるのだが。
 モデル性はある。
 たとえば、「スルー力」というと、それだけで引き起こされるベタなパターン化されたリアクションと誤解の一群が存在する(PV至上主義かよ、け、っとか)。
 このあたりは、特定のボーガス・キーワードのオントロジーでスルーしたほうがいい。
 ブログというかエントリの、スルー力の逆というか注目性というか、ぶくまぺたぺた性というかは、基本的に。

  1. 只物情報
  2. 変わったこと言ってるな
  3. そのネタ受けたぱちぱち拍手

 この2、3あたりが特化されてくるのが、真引きさん、うるるんさん、分裂君、ぬーん、という今年あたりから目立つブロガーかなと思う。基本的にこれらの層は75年世代ではないかとは思う。その意味では、古いの部類だろうし、まあ、日本語を書けるという時点で天才でもなければ古い感性になってしまう。(感性は言語で限定される。)
 彼らのと、ちょっと暴力的にまとめてしまうのだけど、エントリを読むとき、すでに前提が要求される。基本情報とそのレスポンスパターンだ。特に、レスポンスパターンが組み込まれて書かれているというのは、いわゆるそこは笑うところだろ的な読み手の共同性が組み込まれているし、そのあたりで、ぶくまぺたぺたが発生する。
 問題は、とあえていえば、こららのエントリが、基本的に、2変わったこと言ってるな、3そのネタ受けたぱちぱち拍手というあたりで、メタフレームにいかに飲み込まれないかということであって、書き手の表現は工学的には無化される。
 ただ、実際に、先のメンツを見ると、そうしたメタパターンとの関係性ではなく、真引きさん情念、うるるんさん天然、分裂君クレバー、ぬーん煽り、みたいな個性との関連があり、そうした個性への友情的な親近感がぶくまぺたぺたの基本にある。
 このあたりのブロガー(とかいう言い方は偉そうだけどそういう意味じゃない)のブログの公的な枠組みというのが一つ可視になってきている。
 まとめると、ある種の再帰的なメタ性みたいのと個性のバランスだろう。
 この上の世代になると、ふと先日の弾さんとbewaadさんの話で思ったが、お二人ともネタ性が薄い。マジだなこりゃというか、必死マジではないにせよ、書かれたことのネタ回帰性は薄い。
 ふとR30さんとか切隊さんとかも思うが、ちょっと微妙。基本的には、人間は生きていると古くなるは免れないのだが。
 あと、左翼チックなエントリというか正義とかべたな、うーむ批判ではないけど、Yamaguchi.netさんののようなべた性というのは、基本的にブログにマスが流れ込むなかで全体としては大きなポジションにはあるのだけど、パスかな。あと、ついでにきっこの日記はどうも仕込みが抜けてから自滅したっぽい(すでに読んでないが)、とついでに、世に倦むさんとかいつのまにか消えた。丸山真男の本が出るらしいが、アマゾンでもその気配はない。このあたりのあっちのブロガーたちも、全体のブログの沈没スレショルドの派生で沈んだのではないか。
 とか書くとブロガー論のようだし、まあ、そういう面もあるのだが、ブロガーのタイポロジーというより、エントリとぶくまのインタラクションモデルから考えている。
 この下の世代の層があるか?

おめでとう

 ⇒【B面】犬にかぶらせろ! - 単著でます

題名は『タイアップの歌謡史』です。書店に並ぶのは年明けの9日の予定です。
僕にとっては初の単著になります。ばんざーい!

 見かけたら買って読みますだ。
 ただ、ちと私が歌謡曲だと思っている範囲と違ってげ。

偽科学云々

 まるでとまでは言えないが関心ないというか、なんで世の中というかブログ界で関心がありげ見るのか不可解。ところでこんなんで釣れるわけ?
 ID論は偽科学でダーウィニズムが科学?
 ご冗談でしょとか思うけど、そう言うとだね、ID論統一教会=お前は統一教会だろバッシング……うへぇ、怖いよ、ダーウィニズムは科学でございますだ、お代官様 :-)

cover
方法への挑戦―科学的創造と知のアナーキズム: ポール・K. ファイヤアーベント,Paul K. Feyerabend,村上 陽一郎,渡辺 博

あれ? この説明でよいの?

 これ⇒流動性の罠 - Wikipedia
 ほぉ⇒流動性の罠
 字引もあったのか⇒流動性の罠 【りゅうどうせいのわな】 - goo 辞書

利子率がある水準まで下がると,人々はこれ以上は下がらないだろうと予想して現金を持とうとするため,いくら貨幣供給を増やしても利子率はそれよりも下がらなくなること。

 おやっ日銀に⇒流動性の罠と金融政策── 本稿は、2001年9月29日・福島大学で開催された日本金融学会における植田和男審議委員による特別講演の内容を基に加筆修正したものである

流動性の罠」という概念についてはいろいろな解釈が存在し、若干の混乱もみられるが、ここでは単純に「名目金利に低下余地が無い状況」と定義することとしよう。こうした定義に沿えば、近年のわが国では、短期金融市場はほぼ流動性の罠に陥っていたということができよう。他方、長期金利に一段の低下余地が存在するか否かは難しい問題である。

 ほぉほぉ。

第二に、しばしば「量的緩和」の権化のようにいわれるKrugmanも、流動性の罠の下では単純なベースマネーの拡大という量的緩和に意味が無いということを認めた上で、別の政策を提案しているのである。すなわち、現在だけでなく将来もインフレ率が高くなるまで金融緩和を続けるという約束が、期待インフレ率を現在高めるという意味で金融緩和効果を持つと主張しているのである。さらに、こうした約束はインフレ率が上昇しても金利を上げないというコミットメントでも代替できると指摘している。5 振り返ってみれば、1999年4月以降の日本銀行ゼロ金利政策、すなわち「デフレ懸念払拭までゼロ金利を継続する」は、こうした主張とほぼ同様の枠組みであったし、弱い意味でのインフレーション・ターゲティングであったとも言える。つまり、Krugman流の「量的緩和」をまさに実行していたのである。こうした点が、なかなか専門のエコノミストにも理解されなかったのは残念であるとともに不思議な現象であった。ただ、日本銀行の「約束」はややあいまいなものであったし、Krugmanはインフレ率が「年率4〜5%になるまで」と主張していたのに対し、日本銀行はそこまでのコミットメントはしていなかったという重要な相違は残っていた。

 2001時点で言ってたわけね↓

むしろ、あまり指摘されていないことだが、短期金利ゼロ近傍では、財務省が短期国債を市場で発行して、外貨を買うという通常の不胎化介入を通じて、ほぼ金融緩和政策を実行できるのである。なぜなら、発行された短期国債はほぼベースマネーに等しいからである。

視点・論点「まん延するニセ議員」

 みなさんは、「ニセ議員」という言葉を耳にしたことがあるでしょうか。
 これは、見かけは議員のようだけれども、実際にも議員だったりして、親が議員なんで二世議員なんて呼ばれます。
 『そんなものがどこにあるんだ』とお思いの方も、例として、安倍晋三小泉純一郎小沢一郎などの名前を挙げれば、『ああ、そういうもののことか』と納得されるかもしれません。それとも、かえって、『え?』と驚かれるでしょうか。そうです、小泉純一郎は三世議員でした。ちなみにルパン三世はフランスではルパン八世です。ちなみに日本では寺島しのぶの母親は藤純子です。倖田來未の母親は山本リンダです。
 例えば、皆さんもよくご存知のように、『国会議員は羽振りがいい』と盛んに言われ、ひところは業界ジャーナリズムもこぞってネタを繰り出すほどのブームになりました。ガセネタがよく出てきたのは、もちろん、スキャンダルに裏づけがあると信じた人もいたからでしょう。まるこの日記やその仲間のブログでも頻繁に取り上げられましたから、それを信じろという方が無理な話かもしれません。
 しかし、実は、保守系の議員だからってスキャンダルばかりという科学的な根拠は、ほぼない、といってよいのです。もっともそんなものが科学の領域かよとか突っ込みされると偽科学批判とかもそもそもどういう根拠があるんだよとか面倒なことになる可能性はゼロとはいえません。でもきっとなにかが正しくなにかは正しくないのでしょう。この手のネタはなにかと特定分野で正義を人に押しつけたい人の好みですし。いずせにせよ、なんだかんだと煽ったフカシ話の多くはまったくの空騒ぎでした。大手新聞社までが、なぜ、その空騒ぎに乗ってしまったのか。きちんと検証しておく必要があります。
 いまは、伊藤元重を使った金融政策に、一部ですが人気が出てきているようです。しかし、実のところ、マクロ経済学の知識を身に付けたところで、せいぜいお守り程度の効果しか期待できません。問題は何を守るかです。それはインフレ期待です。西遼(カラ=キタイ)ではありません。文脈が違っているかもしれません。
 いま、このような、議員のようで議員でもある「二世議員」が蔓延しています。
 こういった「二世議員」のなかに、マスメディアに関わるものがあります。その話をしたいと思います。
 よく知られている例の一つは、世耕弘成です。しかし、この説に、科学的に信頼しうる根拠はないのです。実際には、彼の父世耕弘昭近畿大学理事長で、祖父世耕弘一は元経済企画庁長官でした。
 もちろん、どんなフカシにもそれなりの物語性がありますから、世論形成に影響することはあるでしょう。しかし、それだけなら、小説やテレビドラマなどでも同じです。黒海が壊れるかどうかとは、まったく別の話なのです。ただし、もうキャビアは獲れなくなるかもしれません。でもチョウザメが獲れるなら大丈夫です。

愛のあるセックス

 そして愛のないセックス
 あるいはエロのない勃起
 問題はエロにおけるノエマノエシスであってエネマではない、絶対に、それは。
 ノエマとはフッサールが主著『純粋現象学現象学的哲学のための諸構想(イデーン)』の第一巻において導入した術語だが、ノエマにはさまざまな規定を与えられ、これらの規定をどのように解釈するかをめぐって、まったく異なる複数の見解が提出され、論争を巻き起こした(ノエマ論争)。エロ・コンテキストにおけるノエマ解釈のポイントは、

  1. ノエマは意味概念の拡張である」というフッサールの発言をどう解するか
  2. 「知覚された対象そのもの」とも言い換えられる知覚ノエマをどのように説明するか

の二点である。
 エロは意味概念の拡張であるということは、ユクスキュル「生物から見た世界」でもあきらかなように、エロそれ自体は種によって異なるものであり、そこには種の超越的なエロ・コードによる意味解釈がアプリオリに含まれていることは疑えない。
 では、「知覚された対象そのもの」なのかというところが問題である。つまり、いま見ているものそれがエロなのか? 対象がエロなのか。それはエロいか? 走れエロ以下略。

なんと言うべきかちと言葉に詰まるが

 ⇒義務を放棄した大人たち : 経営者倶楽部

だが、別に少子化が問題だからではなく、人としての普遍的な生き方として、「若いうちに結婚し、子どもをもつと楽しいし、あとが楽だよ」という常識はやはり必要なのだと思う(もちろん、常識とは違う生き方をする自由が確保されていることは、いうまでもない)。その常識を用意しておくのは、大人の義務なのだ。そして、同時に、とくに異論がないならその常識の範囲でやっていこうと思う若い人に、「全部自力でやりなさい」ではなく、親身に世話をしてあげるのも、大人の義務なのだと思う。

 沈黙してしまった。
 なんと言っていいかよくわからん。
 辰巳渚は1965年福井県生まれということで、俺より若い。彼女が大人なら俺は爺だ、いや、そのノリじゃないよ。
 基本的には⇒極東ブログ: 世間知というのは「それは言っちゃだめよ」ということ
 まあ、それはさておき。
 「親身に世話をしてあげるのも、大人の義務なのだ」というあたりは、さて、と。
 まあ、それはそうかな。

私のように、戦後教育を受けた親に育てられた子どもたちは、かつての子どもたちとはまったく違うのだ、という事実を、50代以上の人たちは真剣に理解しなければならない。「大人の常識を押し付けるなんて」と違和感を覚える人は、大人の常識があるなかで育った人だ。

 もちっと正確に言うと、私より上の世代は常識が欠損していることがある。先日死んだ青島幸男あたりから私の世代までは戦後の反動がある。
 関連⇒finalventの日記 - 昔は良かった……それはもちろんないのだけど
 まあ、この問題は通じない。
 上の世代にも通じないし、下の世代にも通事ない。しいていうと、私の世代から辰巳の世代くらいの10年レンジの特異な自覚かもしれない。
 とはいうが、そのレンジにいたおかげでいろいろ助かったことはあるにはある。
 大正、明治の日本人はいるだけでいろいろ教わるものがあった。善人とか賢人とかいうわけではないのだが。まあ、やはり、通じない問題だろうな。

政府税調会長に香西泰氏

 おや。
 ⇒政府税調会長に香西泰氏・首相が発表 : NIKKEI NET:主要ニュース
 ⇒asahi.com:政府税調会長に香西氏 旧経企庁出身73歳 本間氏後任 - ビジネス

 本間氏の後任をめぐっては、政府・与党内では一時、伊藤元重東大教授の名前が浮上していたが、本人は固辞した。香西氏には26日、首相の指示を受けた塩崎官房長官が要請した。

 ⇒香西泰プロフィール
 ⇒香西泰 - Wikipedia